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更新日 2010-03-10

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H21.9.20 於:文京区立青柳小学校

ゲスト
矢野智司先生(京都大学教授)
出席者
辻 政博(文京区立青柳小学校)
岡田京子(町田市立町田第四章学校)
南 育子(墨田区立堤小学校)
柴崎 裕(多摩市立多摩第三小学校)
記 録
管谷千紘(渋谷区立長谷戸小学校)

東京都図画工作研究会「特設研究会」記録

〜矢野智司先生をお迎えして〜

1、概要

○柴崎裕先生(都図研参与)の企画で、矢野智司先生をお迎えし、「実践作品:持ち寄り研究会」」を行った。現在、図工教育は、「危機的な状況」を迎えており、さまざまな問い直しの必要に迫られている。日頃、私たちが教育現場で感じている実感をもとに、前半は各先生の実践発表を行い、後半は、矢野先生からご意見をいただいた。以下はその研究会の前半の発表の概略と後半の交流部分の記録である。

○矢野智司(やのさとじ)
京都大学大学院教育学研究科 臨床教育人間学

『子どもという思想』(1995 玉川大学出版会)
『ソクラテスのダブルバインド』(1996 世織書房)
『自己変容という物語』(2000 金子書房)
『意味が躍動する生とは何か』(2006 世織書房)
『贈与と交換の教育学 〜漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』(2008 東京大学出版会)

2、実践発表の概略

①辻政博発表
1年生の造形遊び「せんろはつづくよ」は、教室全体を子どもの活動に開放するもので、「材料」「場」「操作(行為)」「イメージ」という視点から子どもがそこでなしたさまざまな出来事をひろいあげてみた。教師は、場や材料という活動へのきっかけを用意するだけで、子どもの活動を誘発するような教育のあり方を提示した。
②岡田京子発表
6年生に「花」をテーマにあとはほとんど規制せずに、材料や技法、自分のイメージを展開する事例を持参した。そこには、実に多様な自分の内面を表現する6年生の子どもたちがいた。「作品のことば」も添えられており、深く内省的に活動する子どもの様子がみてとれた。
③南育子発表
勤務校は、外国籍の子どもが多数在籍するなどの特色があり、そのなかで、ともに学校で生活し遊びながら、それを図工の活動に援用するようなアプローチがみられた。「ひまわり」は、学級園で栽培しながら、その時々の様子をスケッチし、画用紙を縦長に、伸ばしていくというもので、多層な子どもの時間が織り込まれていた。
④管谷千紘発表
大量の絵の具を準備し、「桜」や「ことばのヒントをもとに想像した情景」(アンリ・ルソーの絵をもとにして)を描く実践の発表。子どもが、絵の具と身体的に十分戯れながら、自分のイメージをつくりあげようとする子どもの姿がみてとれた。
⑤柴崎裕発表
「水」を材料にした高学年の造形遊びの事例を中心とした発表。「造形遊び」というとすぐ低学年を思い浮かべるが、ここでは、盛んに、活動する子どもの姿がみられ、また、子どもによっても活動の内容に傾向の差異がみられることがわかった。そして、それぞれの活動を子ども自身が「写真」に撮ることによる活動への意味付ける姿をみることができた。

3、話し合いの記録

<矢野先生>

 画材が違う、道具が違う、それだけで違う世界が開かれる。例えば、幼児教育の中で考えたとき、ダンボールとガムテープが幼稚園に入るだけで造形の在り方は一新される。子どもの力だけでそれまでではできなかったような大きな造形物をつくることができる。セロテープや糊では絶対につくることができないような大きな造形物ができる。他にも、例えば道具ではローラーがあって(僕らが受けた工作時間のときにはなかった)、画材にはチョークがあって(これもなかった)、…それぞれに開かれる世界は異なる。また今回、いろいろな長さや大きさの紙(の絵)があったが、画用紙の大きさが、描くものを限定する。限定することで新たな表現が可能となる。画用紙が変わるだけで、できるものが違ってくる。それは当たり前のようでいて面白いことだと思う。
image002-2.jpg 人間は「メディア」を通じて世界を開いていく、世界に開かれていく。例えば、鉛筆しか存在しない世界にクレヨンが生まれた瞬間、子どもの手の力(握力)でも描くことのできる世界が新たに開かれた。メディアが新しいものに変わるだけで、子どもにとって開かれる世界は変わっていく。
 子どもと大人とで違うところは、子どもは線を引きながら考えている。線が太すぎたり、濃すぎたりしてしまい、それを修正しながら、技術が未熟で自分の思い通りにならないにしても、未熟なところで新しい世界が開かれているのがとても面白い。僕は、技術が向上することは大切だと考えているが、そうでない体験が深まり新たな世界が開かれることも大事だと考える。
 面白いのは、表現しましょうというのでは、表現にならないこと。自由作文の授業ほど苦しいものはない。自由に絵を描きましょうというのも同様に難しい。メディアをとおしての限定・制限の付け方、方向の付け方が教師の力だと思う。限定が何もないところでは何も開かれない。例えば、王冠の形の制限のある無しは、とても面白い問題だと思う(辻実践より)。限定があることで、子どもは落ち着いて安心して表現に没頭できる。教育はいつも限定をもっている。あるべき方向ももっている。より美しいものや美的価値は一元的ではないにしても、「こっちの方」というものがあるのでは。その「こっちの方」というのは単純に決まってくるものではないが。一般論としては、メディアを限定することで、子どもの表現する世界は広がる。絵筆をもつことで開かれることがある。どういうもの(メディア)を提示して、どう広げるかが教師の課題だと思う。
 このメディアという観点からいえば、写真の実践(柴崎実践)は面白い。おそらく、子どもは写しているときにはどのようなものができあがるのかよく分からない。でも時間と空間とを限定して切り取った瞬間に、これまで予想もしなかったような新たな世界が開かれた。そのような世界の切り取り方は、カメラというメディアなしにはあり得ない。カメラというメディアを通して、人間の認識の広がりとか深まりとかが起こる。
image001-2.jpg どのような実践も、限定・制限の仕方は一律ではないだろう。子どもの状態や、どれだけメディアの性格や素材の性格を知っているのかにもよるだろう。メディアと素材と子どもの現在を知っていなければ、子どもにメディアも素材も提示できない。授業の展開の仕方も大切だ。メディアと素材とを最初からすべてを先生が用意することも可能なのだろうが、子どもが自分でそろえていくプロセスも楽しむことができるようになっている。泡とか(南実践「シャンプーの泡」を使った平面作品)。
 図画工作の歴史がどんな形で動いているのか分からないが、花の絵を描く(南実践より)ときに、幼児教育や遊びの延長にあるようにも感じる。僕は「遊び」をとても評価しているので、とてもいいと思う。子どもは「対象」を大人のような意味で「対象」として見なはいない。ひまわりが大きくなっていくのを観察する、それを描く、種ができるとそれを食べる、そのすべてが全体的になって「対象」となっている、そのことが面白い。普通の大人が考える意味での「絵」ではない。それをどう評価するのかが難しい。このような子どものヒマワリへの関わりが一杯つまった絵でも、やっぱり評価って付けるのですよね?

<柴崎先生>

 (評価は)これが、難しい。教師と子どもの時間の中でつけるような。

<矢野先生>

 子どもがその作品を描いている最中に、どう声をかけるのかにも結び付いてくるよね。

<南先生>

 こちらがどれだけ子どもを見ることができるかにもかかっている。

<柴崎先生>

 すごく暫定的に付ける。僕は…。
 僕は、美術からすべてを学んだ、美術で世界が開かれていったという感じがある。
 学校の中に主要教科があって、図工は時数も削られて、追いやられていく状況がずっと続いている。ゆとり教育、それはこの教科を応援するような波であったけれども、ここに来てまた反動がやってきて、また追いやられている。制度的にいうと、学校自由選択制度などがどんどんできて、それは全体として見ると、人間の中心的な課題が空洞化しているように感じる。
 僕ら自身が美術をやっていくことの意味というものを、うまく伝えていけるような、波を押し返すことができるようなことはできないのか。そんな中で、矢野先生の文章に出会い、大変な勇気を頂いた。
矢野先生は平成10年の「学習指導要領」の改定で、中心的な改善点として指摘されていた「体験重視」に向けた『初等教育資料』(H10年8月号)で、「教育」が「体験」を言うときに陥るレトリックに釘を刺しているように僕は感じた。つまり「体験と経験を区別した上で、体験(溶解体験)は、有用性に貢献しないことこそ重要だ」という指摘だった。何かこう、僕らの言いたいことがそこから言葉になりそうだと、血の通った言葉が流れ始めるようなインパクトがあった。
教育の中枢である文科省の資料に、既にこのような逆説的な言説が置かれていることに驚き、一方で、子どもたちとのやりとりの中で僕らが何をやっているのかということ…つまり実際の現場を矢野先生に見ていただき、お話を伺いたいと思うようになった。
 図工の授業は、もの(メディア)が置かれる。それが中心的な構造だと思っている。そして、それは現代美術にも似ているというか、何かつながっている気がする。物がボンと出てきて。
 今の教育の現場では、「遊び」というものがよく出てくる。例えば体育では「多様な動きをつくる運動遊び」というものが低学年にある。今の子どもは遊びの中でいろいろな動きをしていないから、低学年の体育の中で、いろいろな動きが出てくる遊びを考えようなど。それらの先導的な動きとして図工では「造形遊び」があり、平成元年の学習指導要領から導入されている。(注:S52年の改定の名称では「造形的な遊び」。)
 教育のなかで「遊び」という言葉が多様に展開しているけれども、僕は、先生のお書きになる「溶解体験」を目指すものが、「造形遊び」であり、それは美術教育の核心だと考えている。しかし、美術教育の内部でさえも、「造形遊び」を「あんなことやっていて何の力になるのか?」と言う議論がある状況だ。うーん。
 矢野先生が東京藝術大学で講演(08年12月『自分の鼓動が世界の鼓動のように感じられるとき〜美術教育がなぜ必要かについて坂上がりをとおして考える〜』)された中で、「メディアをどう配置するか…ということが、具体的な学校現場の実践的課題だ。」というお話があった。僕らもそういうところに拠り所を求めている。「メディアの配置のされ方」という提示は(子どもが作品を作る…ということから離れた視点=「造形遊び」への新たな読み替えであり、また教育空間を広く取り込んで、読み直す新たな契機となる提示として)ストンと落ちた言葉だった。

<矢野先生>

 学校教育の授業は基本的には「言語」を通してなされている。言葉によらない表現形態では、音楽もあるが、自分で作曲(表現)するところまでいくのは、学校外で特別な訓練を受けていない普通の子どもでは難しい。体育は、ある運動の動きの形をルールに従って学んでいく。それも大事なことだが、自分を表現する・世界を構築するという点では弱い。それができるのは教科のなかで図工だと思う。また体育だったら、速く走れない、鉄棒ができないということもあるけれど、自分の思い通りになるかどうかは別として、鉛筆やクレヨンで線を引くというのはどの子どもにできて、それである別の世界に触れることができる。しかも美術はとても奥が深いから、工夫次第では子どもでも、どこまでも、どこまでも世界の奥に行ける。どこまでも深い比類ない体験が開かれる。

<柴崎先生>

 自分たちがやっている図工に対して、直感的にはここに大事なものがあるぞと思っていて、それは自分が生きている中での核心でもあるのだけれど、できればそれを上手く広げていきたい。

<矢野先生>

 図工は遊びと同じく有用性とは違うものと向かい合っている。遊びは有用性を破壊する行為だ。よく遊びにどんな「意味」があるのか、何の役に立つのかと聞かれる。しかし遊びには遊ぶこと自体を超えた「意味」はない。「意味」は人間の日常や有用性と無関係ではないから、その「意味」を言わないでおくと、役に立たないどころか「意味」の無いものだと思われてしまう。遊びには結果としていろいろな「意味」があるし役にも立つが、それ自体はそう言い表し得ない「意味」の外に行く体験である。けれども(現状では)、教育的な「意味」を説明できない教科や実践は、公教育では生き残ることができなくなっている。図工も幼児教育における遊びと同じ問題に直面している。
 だが、例えば自分が優れた芸術作品を目の前にしているとき、その作品が一体何を開いているのか、何を自分にもたらしているのか、自分がどう変わっているのかなど、言葉としてはうまく表現できないが、その作品と出会わなければあり得なかった自分の世界体験が生起している。その体験の「意味」や「価値」を問われたとして、それは日常の有用性と関わるような言葉で言い換えることは困難だ。「絵をみてそれがどうなんだ(何の役に立つのか)」と問われても、「それがどうなんだ」どころか「それが生きていることのすべてだ」と言うしかない。新しい世界に開かれ、新しい自己に出会う、というよりほかに人生の悦びはないだろう。しかも、それは「役に立つかどうか」という問い自体を改めてとらえ直すことになる。
 教育とは、そもそも社会の中での機能を目指しているから、役に立つことと連ねて考えざるを得ないし、実際役に立つ機能がある。しかし、すべての物事を「役に立つ、意味がある」ということで防衛しようとすると、逆に本来のところから離れていく。金があればいい、能力が上がればいいというところでの勝負になってしまう。「有用性」や「意味」に依らないで生きる「意味」がある(意味を超えた意味)。
 子どもの撮った写真作品を見て、図工に関わらない他の先生達が「エ〜すごい!」とその作品を認めてくれる。それが面白いこと、素敵なことだと思う。そのこと以外に何を求める必要があるのだろうか。私たちは図工というメディアの集合体によってそういう人間のかけがえのない体験を生み出していく。そういうことに悦びを見いだす人間を形成していく。

<柴崎先生>

 今ある教育の制度は窮屈で、それをもっと追い返したいという気持ちが実際はあって、そういう体験を通して、教育自体の考え方を変えていくことができればいいと思う。

<矢野先生>

 そういうふうに自分もこれからも考えたいし、考えていく責任もあると思う。自分もまた教員を養成する人たちを育てているわけだから。これまで教育学者は、有用性を超えたものの価値や意味、意味を超えた意味みたいなものを提示してこなかったわけだから。けれど教育理論で言えば、「有用性」や「意味」を重視する「発達」一元論は、ちょっとずつ変わってきているのかな。

<柴崎先生>

 教育改革が叫ばれているが、このような場がちょっとずつ広がっていくようになればいい。一気になんか変わらない。

<矢野先生>

 法律が変わると現場も従っていかなきゃいけないけど、実際に、個々の先生はそれぞれの授業の中で実現している。そこに現場の実践を支える「言葉」を贈与していくということは、これからの教育研究者の義務だと思う。

<辻先生>

 創造性とか個性化とかが実態として教育現場で実践されはじめたのは戦後だと思う。個々の人間の人間性を問われたときに出てきた。今の時代はそれが逆転してきている。

<矢野先生>

 筑波大学や広島大学出身の図工の先生は「都図研」みたいじゃないのですか?

<辻先生>

 美術教育の中にも官僚的な風潮はある。いわゆる教育学的な美術教育というのは、どちらかというと教育という面がつよい。いかに「教える」か、ということに傾斜している。僕たちはわりと、「アートと子どもとはどういうものだろう」というあたりから始めている。やっぱり、そういう人たちは「有用な図画工作」にしなければいけないし、意味を設定しなければならないのだろう。

<柴崎先生>

 美術というもの自体も拡散しているし、その中で新たに見えてくる表現方法やメディアは、今後も違ってくるだろう。今の子ども達はそういったたくさんのメディアに晒されている。
美術も教育からも、教師の立つ位置はすごく揺らいでいる。教える先生達の意識に委ねられている。もっと、今の子どもたちにストレートにフィットする授業があるのだろうし、それを考えていかなければならないと思う。矢野先生、これからもお付き合いのほど、よろしくお願いします。

<辻先生>

 来年は、みんなで京都に行って研究会を開きましょうか!(笑)               


(了)

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