とずけんどっとこむ

更新日 2008-08-20

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都図研は今年60周年

とずけんどっとこむ

「お炊事と原稿書き」・・・08/08/18(月) 

 16日以後、日記がとどこおってしまった。というのも老人問題と原稿問題に忙殺されてしまったからであった。老人問題は、朝飯、昼飯、夜飯をつくる。その合間のマッサージの送り迎え、喫茶店の送り迎えである。
 また、締め切りを過ぎてしまった原稿問題は、総数で21ページ書き上げ、送付した。ちょこちょこの用使いとうんうんの原稿書きで、日記のようなこころ静かに反省しながらの書きものは、できなかった。それにオリンピックもやっていたのでなおさらだ。
原稿がつまると、TVを眺めたが、普段見ていないので、タレントの名前がぜんぜんわからない。しかし、みていると、ほとんどがお笑いタレントの雑談ショー、スポーツなど、占められている。「これでいいのか〜」と小生のような者も思うのだが・・・故、赤塚不二夫なら「これでいいのだ〜」と肯定するのだろうか。

「老人問題」・・・08/08/16(土)

image003.png うちのおっかさん(85歳)が、大学付属病院に行くというので、2時間ほど遅れていくと、まだ、混んでいて診察の予約の12時になってもまだ順番がこないという。10時にでかけて検診を済ませてみてもらったのが、13時なので、3時間もかかっている。医者もたいへんだが、患者も長い廊下のずっとむこうまで、埋まっている。これは、内科だから、他の科を考えるとすごい数のひとが待っていることになる。さらに、診察室はここではなく、さらに、奥に行くと、10部屋位に仕切られた診察室の前にたくさんの人が待っている。
 その多くが老人だ。(隣家のおじさんも待っているではないか)「後期高齢者問題」でメディアがにぎわったが、ここにくると、日本はすでに老人大国であることがひしひしと伝わってくる。
 病院の壁には、絵が飾ってあった。よく見ると「寄贈品」で、(その贈呈の気持ちとは別に)あまり病院という環境にフィットしたものが少なかった。
 どんなものが、フィットするのかよくわからないが、その種のコーディネーターというのは、いるのだろうか。「ARTと病院」というのは、大きなテーマになりうるのではないかとふと思った。風景画が多かったが、あんまり関係ないモチーフの作品もあったし、公募展風の作風が多くどこか泥臭く、やぼったいのであった。
image005.jpg みているとアメリカ絵画最初期のロマン主義的な絵画もあった。神秘的な雰囲気をたたえた作風だ。(確か、同じようなのが「日生劇場」トイレの横の壁にかかっていた。引率で発見した)。
 そうこうしているうちに、順番が回ってきた。8月末に、手術をすることになって、医者の指示で、役所にいって2種類の書類をもらってくることになった。時間がないので、夕方、役所に行くと、その書類をもらうには、役所でもらった書類に、医者に申告書を書いてもらい申請しないとその書類はもらえないというのであった。(なんという煩雑さだろうか)ということで、なんやら、老人にかかわりながら、時間はあっという間にすぎていったのであった。
image007.jpg 鈴石先生の原稿を送付したあと、次の原稿にとりかかり、やっとこさっとこ仕上げて、送付した。12ページは長くてきつかったなあ。でも、まだできていない原稿がたくさんある。(締切も過ぎている)。小生、この夏、全然遊び呆けてはおらず、大会の後、老人の世話をしていたのであるが、夏休みの宿題をし忘れた子どものような状態になってきた。
 「世話人」が帰省したので、これから、おっかさんの夕めしをつくるから、今日の日記はここまで。

「森美術館、メサジェ展」・・・08/08/15(金)

 昨日は、InSEA大会で連続個人発表の通訳をしていただいた佐々木邦子さんが、遠方より我が家に立ち寄られた。夕方になって六本木ヒルズの森美術館に「アネット・メサジェ」の展覧会を見に行った。夜までやっているところがないので森美術館に行くことにした。佐々木さんは普段、奈良に住んでいるのでせっかく東京にきたのでご案内したが、自分も忙しくて美術館へはいっていないのであった。
image001.jpg フランスの女性作家メサジェは、最初期に雀の死体をオブジェした作品のごとく、テーマには死や生がぴたりとつきまとっている。が、なまなましく表現するのではなく、そこにPOPな装いがあり、ユーモアや暖かい感情も流れている。
 彼女のインスタレーションの手法は、テーマに沿いながら、ありとあらゆる手法を駆使している。図工にも応用できるような事例がたくさんあった。
 たくさんの来館者があったが、こういう作品をみている人々がこんなにいるなら、子どもの作品に対するものの見方もかなり変わってきているのではないかと思うのだが・・・・・世間はすすんでも、教師がかわらないのではらちが明かない。

 ところで、鈴石先生から原稿の督促がメールで送られてきた。「締切15日」。「ううぉー」。朝方書き上げて、あせって送った。原稿がまだ4-5本たまっている。やばいなあ。

「フォークの神様、岡林信康」・・・08/08/14(木)

image002.jpg 岡林信康さんは、「フォークの神様」と言われるように60年代後半から70年代にかけての日本のプロテストソングの初期に活躍した人物である。ぼくが高校生時代には、「はっぴぃえんど」をバックにしたがえたアルバムを友達にかりて聴いたものだ。「がいこつの唄」など、風刺があって印象深かった。「手紙」や「チューリップのアップリケ」などは、同和問題をあつかったもので、多くの放送禁止歌を歌った。
以前、NHKの「金魚」の番組でみかけたことがあったが、(この人「金魚マニヤ」になっておったんや・・・)この日の番組は、昨年の10月に日比谷の野音で、36年ぶりに「狂い咲き」というコンサートを行ったものを放映したもの。
当年、61歳の岡林さんは、すこぶる元気で、還暦前後の観衆に向かって「まだまだこれからやで」と激賞していた。音楽的には、初期のようなフォークではなく、日本の民謡や韓国のサムルノリを融合したものを歌っていた。
image004.jpg 岡林やそこに来ていた観衆はちょうど団塊の世代であるが、「団塊の世代」というのは、自分の周りにいる人もそうだが、たいへん元気がいい。団塊の世代が集合しているのをみると「バッタの来襲」を思い出す。草も麦もすべてを食いつくすイメージである。あとには何も残っていない。
 ところで、メディアで岡林が取り上げられていること自体が、何か時代のメッセージを含んでいるような気がする。
 本屋の店頭で本田由紀(東京大学大学院准教授)の『軋む社会―教育・仕事・若者の現在』(2008、双風舎)という本が出ていた。これは、新自由主義的な競争社会が生活の細部に進行するなかで生まれた様々な軋みを取り扱った本である。本田は前著『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』(2005、NTT出版)で今日の教育と社会状況を分析したが、本書でもさまざまな矛盾を提示している。
image006.jpg その中で「ハイパー“プロ文”」というキーワードを提示し、鼎談をおこなっている。要するに小林多喜二なんどのプロレタリア文学を再評価する機運が高まってきているらしい。というのも、先に述べたように世界が、個々の人間に過酷な状況を提示しているからだ。世界が不安を提示するならば、芸術は、モダンな形式よりも、具体的な内容をメッセージとして発する。
 一方で、北京オリンピックは、エンターテイメントな夢を演出し、一方で、戦争も起きている。露わに二極化した世界がそこにある。

「サボテンの花2」・・・08/08/13(水)

image003-3.png もう一個のサボテンの花が咲いた。白くて大きい。1年に一回だけ咲く。ひと夜限りの白い花。
 庭なしのミニマルな小家屋に住むぼくの家の、これまた、猫の額のはえぎわのようなベランダにサボテンコレクションとは言えないようなサボテンたちが住んでいる。

ウィキペディアによると、サボテンは、
「サボテン(シャボテン、仙人掌、覇王樹)はサボテン科に属する植物の総称である。その多くは多肉植物であるため、多肉植物の別名として使われることもあるが、サボテン科以外の多肉植物をサボテンと呼ぶ事は誤りである。」とのことで、「多肉植物」とは異なるらしい。
「多肉植物」とは、「葉、茎または根の内部の柔組織(じゅうそしき)に水を貯蔵している植物の総称である。砂漠や海岸のような乾燥地帯に生育するものが多い。多肉植物のうちで、サボテン科が非常に種類の多いグループであるため、一般に園芸業界では「サボテン」とそれ以外の「多肉植物」とに分けて呼ばれることが多い。(誤って多肉植物が「サボテン」と総称されることもあるが、サボテン(サボテン科植物)はあくまで多肉植物の一部にすぎない。)」ということらしいので、サボテンはあくまで「サボテン」ということなのであろう。
 ちなみに、ぼくの家で咲いたサボテンは、次のような分類に分けられるみたいだ。

植物界 Plantae
被子植物門 Magnoliophyta
双子葉植物綱 Magnoliopsida
ナデシコ目 Caryophyllales
サボテン科 Cactaceae

 「界」「門」「鋼」「目」「科」というのは、高校の「生物」で習ったような習わなかったような(寝ていたからね・・・)感じであるが、「生物の分類」というのは、「判明している生物の種は、300万から1,000万種である。それぞれの種には学名(属名+種小名または属名+種形容語)がつけられる。学名の前半は属名で、属とはごく類縁関係が近い種をまとめたものである。これらを分類してその分類グループに分類名をつけることが行われている。さらにこの分類を階層的に(小分類>中分類>大分類etc)体系付けすることで、いろいろな生物グループ同士の類縁関係、ひいては進化の系譜を明らかにしようとする。分類学は、それぞれの時代において、その当時までに判明した情報に基づいてできるだけ納得の出来るような分類の体系を模索し続けてきた。リンネの時代には形態を中心に、顕微鏡が使われるようになればそこから得られる情報をも利用し、生化学が発達すれば色素なども利用し、常にできるだけ納得のいく体系が探し求められた。そのため、分類体系は時代と共に変化しつつ、次第に正しい姿に近づいているものと考えられる。20世紀末には遺伝子そのものを参照する分子遺伝学の手法が取り入れられ、多くの分類群において大きな見直しが迫られている。したがって、このような体系は今後も変更を余儀なくされることがままあるはずである。」という状態らしい。
 「分類学」というものもあるらしい。「分類学(ぶんるいがく, 英:Taxonomy)とは、生物を分類することを目的とした生物学の一分野。生物を種々の特徴によって分類し、体系的にまとめ、生物多様性を理解する。なお、広義の分類学では、無生物も含めた事物(観念も含めて)を対象とする。以下の叙述では狭義の分類学(生物の分類学)についておこなう。歴史的には博物学にその起源があり、この世に存在する、あるいは存在したすべての生物をその対象とする。実際には、個々の分類学者は、その中の特定の分類群を研究対象とし、全体を見渡した分類体系をその対象にすることはない。 分類学は本来は進化論とは無関係であったが、現在では、近いどうしを集め分類群を作成することで系統樹が作成され、分類学は進化を理解する上で重要な役割をもっている。」
 「博物学」がどうやら起源らしい。
「博物学(はくぶつがく、Natural history, 一名:自然史)とは、自然に存在するものについて研究する学問。広義には自然科学のすべて。狭義には動物・植物・鉱物・岩石など、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。東洋では本草学がそれにあたる。」
 歴史的には、「自然界に存在するものを収集・分類する試みは太古から行われてきた。自然に対する知識を体系化した書物としては、古代ギリシアではアリストテレスの『動物誌』、古代ローマ時代ではプリニウスの『博物誌』などがある。東洋では「本草学」と呼ばれ、伝統中国医学の「薬(漢方薬)」(または仙人になるための方術である錬丹術に必要とされた霊薬仙丹)の原材料の研究とともに発達した。明の時代に李時珍が書いた『本草綱目』はその集大成とも呼べる書物であり、日本にも大きな影響を与えた。ヨーロッパの大航海時代以降、世界各地で新種の動物・植物・鉱物の発見が相次ぎ、それを分類する手段としての博物学が発達した。薬用植物・茶・ゴム・コショウなど、経済的に有用な植物を確保するため、プラントハンターと呼ばれる植物採集者たちが世界中に散り、珍奇な植物を探して回った。また動物や鉱物なども採集された。動物の例で言えば、東南アジアのフウチョウなどの標本がヨーロッパにもたらされた。19世紀後半(主にチャールズ・ダーウィン以降)に入ると学問が細分化し、博物学は動物学・植物学・鉱物学・地質学などに細分化され、大きくは生物学とがそれぞれ異なった分野として独自の方法論を展開するようになった。」そうである。
また「博物学の作業としては、自然物の採集とその同定が最初になる。しかしそれと同じくらい、博物学者たちはその分類に情熱を傾けた。採集と分類は科学としての博物学を支える両輪であった。素朴な分類法はすでに編み出されていた。たとえば動物を「有用な動物−家畜」と「それ以外の動物−獣」に分類する方法など。しかし、これらの分類は人間の都合や、見た目によるものが多く、科学的な分類法としては採用することができなかった。自然界にある多種多様のものを分類するために、さまざまな分類法が編み出された。たとえば、人間−高等動物−下等動物−植物−鉱物−火や空気という順に並んでいる「存在の階梯」という分類体系がある。これ以外にも、二分法による体系。三分法による体系など、さまざまな思弁的な分類法が考案された。これらについては荒俣宏著『目玉と脳の大冒険』に詳しい。一方、生物の分類についてはリンネが形式的には二名法による学名を考案し、分類の基準としては類縁性を元にした自然分類の観点を持ち込んだ。これによって、その後生物における分類学が大きく進んだ。その後、19世紀後期にダーウィンが『種の起源』を著して進化論を唱える。学会に進化論が認知されるまでにもだいぶ時間がかかったが、やがてそれは科学的な事実として受け入れられるようになった。進化論は必然的に、系統分類(もしくは分岐分類)の分類法を要請する。つまり、類縁性は進化的な近縁性に置き換えられた。生物においては、それ以外の分類法は捨て去られるか、あるいは系統分類に統合されることとなった。また、非生物の分野でも、分類法の革新があった。元素の発見、化合物の研究が進み、メンデレーエフの周期律表に代表されるように化学的知識が整理されてくると、鉱物を化学物質として研究することが可能になった。20世紀の科学では、生物には系統分類もしくは分岐分類、鉱物には化学的組成による分類、岩石には組成・成因による分類が適用されるようになる。一般化・体系化が科学的方法論の本流であり、博物学が旨とする収集・記述は傍流であるとみなされるようになってきたのである。これにより博物学はその使命を終えた。」ということである。
さらに・・・「現在、博物学は学問分野としては残っていないが、自然科学研究のひとつの方法として博物学的研究というのがある。博物学的研究は、理論的側面に弱いので、学問の世界では一段低く見られている傾向もある。しかし、自然科学の研究対象となる種々の自然物の記載分類は科学の基礎として欠かすことのできない作業であり、この部分が充実していないと研究材料の特定が困難となり、自然科学の諸分野は砂上の楼閣と化してしまう。そのため、博物学的研究の重要性はいまも変わっていない。博物学的研究とは、野や山に向かい、動物・植物・鉱物などを収集・同定・分類する研究である。たとえば、牧野富太郎が行った植物研究や、南方熊楠が行った変形菌研究などがその例となる。またこの分野ではアマチュアの活動も大きい役割を担っている。たとえば昆虫などは、各地の昆虫採集好きのアマチュアが新種を発見することも多い。あるいは、野生生物の不思議な特徴や珍しい行動がアマチュアによって発見され、新たな発展が行われた例もある。ヨーロッパでは、博物学的研究の趣味が伝統的にあって、それを楽しむ人は「ナチュラリスト」と呼ばれている。現在でも、製薬会社はプラントハンターたちを世界各国の特に熱帯雨林などの詳しい調査がこれまで行われていなかった地域に派遣して植物の収集に努めている。鉱物の分野でも、毎年数十の新種が新しく発見されている。天体物理学が主流を占めている今日の天文学の分野でも、小惑星や彗星、新星の発見、分類は、未だ盛んであり、天文学におけるこの種の分野は、博物学の範疇であるとも言える。また、環境破壊や地球環境の危機が叫ばれる中、地域ごとの自然保護や環境保全においては、そのような知識を持った人材の活用が不可欠であるため、パラタクソノミストと呼ばれる職業的、あるいはボランティア的に博物学的な仕事をする専門家の育成が叫ばれるようになってきている。」そうである。
「本草学」という名称もよく聞く名称だが・・・「日本には中世以来、「本草学」として博物学が以前からあった。江戸時代には『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が進められ、貝原益軒や田村藍水などの著名な本草学者が出現した。藍水門下の平賀源内は物産会を開いた。また、石綿や、いくつかの鉱山を見つけた。魚介類・鳥類・植物などを図鑑としてまとめる作業は、大名などのあいだで流行し、極密の魚介図譜・禽獣図譜などが作られた。これらの多くは、美術的にも評価が高い。その後杉田玄白らによって蘭学が成立すると、ヨーロッパから渡ってきた博物学書の翻訳が行われた(翻訳自体は、その一世代前の野呂元丈がすでに行っていた。ただしそれは一般に広まらなかった)。大槻玄沢や司馬江漢がオランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学的知識は実用可能である上に、当時の幕府が危険視するような思想的背景が薄いため、かなり早くから流入し、本草学にも影響を与えている。」
またさらに、 西洋の博物学の移入においては・・・「日本は島国であり、地形の起伏に富む。そのため固有種は少なくない。大航海時代以降、ヨーロッパ各国の学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は鎖国政策を取っていたため入国ができなかった。わずかにオランダ商人だけが出島への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは出島の三学者と呼ばれるケンペル、ツンベリー、シーボルトである。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。ケンペルは出島に薬草園を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また中川淳庵・桂川甫周らに植物標本の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつであるアジサイの一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。」そうである。

 実に引用だらけの日記となった。
サボテンの白い花は、実在し、不思議な感銘を与えるが、それを語ろうとすると、アリストテレス以来の人間の語ろうとする欲望にぶつかる。まったくすげーなー。

「山梨県教育研修センター講師」・・・08/08/12(火)

image001-9.jpg 昨日は、山梨まで造形遊びの研修会の講師に行ってきた。受講生は、中学校の先生3人くらい。小学校担任5人くらい。その他、特別支援の先生方で24人であった。東京のように図工専科はいない。
 第一部は、水を使った造形遊びで「お水でアート」。お題は、「水ってどんなかたち?」「どんな色?」「どこにあるの?」すごく簡単なものである。いろいろな容器や袋に水や色を入れ、触感や質感を感じながら、並べたり、組み合わせたり、設置したりしていく。

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  地方にいって感じるのは、先生方が素直で、楽しみながら活動することである。あんまり、先入観がないところがいい。研修の環境が整えば、図工教育は充実する可能性をもっている。あんまり、小理屈を並べた研修内容は、眠気を誘うだけで、実践力に結び付かない。「二学期に水を使った授業をやってみようかしら」というつぶやきが聞こえてきたのがうれしかった。 


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 第二部は、手製「鑑賞カード」による「お話ゲーム」。グループに分かれて、ルールを決めたり、お話をつくりながら遊んで行く。その次に、個人お話づくり、4枚カードを選び、カードを好きなように並べて、お話をつくっていく。グループで披露したのち、推薦者が発表。なかなか楽しかった。
 24人は、皆さん知り合いではなかったが、帰りには、なかよく打ち解けあう雰囲気が漂っていた。

「サボテンの花」・・・08/08/11(月)

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 サボテンの花が咲いた。いきなりぱっと咲く。唐突な場所から芽がにゅーっと伸びて、夜に咲く。いつみても不思議だ。以前、「サボテンくん」という題材を考案したことがある。指導者が面白いと思うものは、子どもにも伝わって、うまくいくことを感じた。そう言えば、こんな題名の曲があった気がする。今日は、山梨県に講師でいく。

「InSEA大会シンポ 図工室の鍵」・・・08/08/10(日)

 InSEA大会のシンポジウムで、パネラーの岩井茂昭さんのことばが印象的だった。「図工の教師は、学校の中で図工という領域に鍵をかけて閉じこもっている。」というものだ。
 確かに、ぼくが都図研の役員という立場から、現場を見渡す限り、そういうことが、言えなくはない、というか、否定できないなあ、という思いをもつ。
 けれども、一方で、こうした鍵をといて、積極的に、外部と関係を持ちながら、活動している図工の先生もいる。
 現代の組織と個々の人間の心理的な関係を、例えば、「ある会員制の組織があって、会費を払いはするが、サービスだけを受けて、運営には参加しないというような態度、心情に満ちている」というような言い方で表現できないだろうか。
 都図研という組織の面でもこうした傾向がみられるのではないか。都図研の場合は、会費が各市区町村の分担というかたちをとっていて、自動的に会員になれるので、会員意識がなおさら低いかもしれない。
 けれども、現場の教師による教員研修、教育研究は、日本の教育の世界におけるよき伝統で、これこそが日本の教員の質を保ってきたと言える。都図研もこうした伝統的な研究、研修体制がその出自にある。昭和23年に現場の先生方が寄り合って産声を上げてから、60年、今日まで継続してきた。
 けれども個々の図工教師が、個々の図工室に「鍵」をかけて、閉じてしまうならば、実は、図工という部屋自体も消滅する日は近いという警告をぼくは、岩井茂昭さんのことばから感じたのであった。

「ティーチャーズ・ワークス展と北京オリンピック」・・・08/08/9(土)

 6日にInSEA大会から帰ってきて、すぐ9日になってしまった。何もしないのは気分がいいが、宿題がたまる。たまると後で苦しくなる。
image001.jpg 9月にCCAAでおこなう「都図研創立60周年記念展覧会」の作品の続きを少しやった。ベニヤ材でかたちを組み、ウッドパテで目止めをし、モデリングペーストを盛り付けた段階でとまっていた。さらに、磨きをかける段階で、サンダーを使ってフラットにしていく。
 磨いてから、また、ペーストを塗りまた磨く。という風にだんだんと表面をツルツルにしていく。
 口で云うと簡単だが、なかなかフラットにはならない。車に傷をつけると直すのに高額のお金を取られるが、こうした作業をやってみるとうなづけるのである。また、漆器なども磨きがあるが、気の遠くなるような工程がそこにはある。
 9月までにはなんとかしないといけないが、まだまだだなあ・・・。出品するみなさんは、もうできたかな?

image005.png ところで、夜には、「北京オリンピック」の開会式をTVでやっていた。(実は途中でねむっちゃったんだけどね)花火の派手さよりも、紙や絵巻のパーフォーマンスに魅かれた。文明の発祥地としての中国のアピールがそこにある。紙の歴史をちょっとみてみると・・・・

 世界最古の紙は現在、中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものだとされている。この紙は、前漢時代の地図が書かれており、紀元前150年頃のものだと推定される。
史書に残された記録では後漢書で、105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したという内容の記述がある。こうした記述から、紙の発明者は蔡倫だとされたこともあった。現在では、蔡倫は紙の改良者であるといわれることが多い。
紙は軽くかさばらないので、記録用媒体として、従来の木簡や竹簡、絹布にかわって普及した。
西晋の時代(3世紀)には、左思の『三都賦』を写すために紙の価格が高騰したという記録が晋書に記載されており、「洛陽の紙価を高からしむ」という故事成語になっている。
紙はその後も改良され、唐時代(8世紀)には樹皮を主原料とした紙や、竹や藁を原料として混ぜた紙が作られるようになった。宋や明の時代(10世紀以降)には、出版が盛んとなったため大量の紙が必要となり、竹紙が盛んに作られた。明末の1637年に刊行された『天工開物』には、製紙の項目で、竹紙と樹皮を原料とした紙の製法を取り上げている。
紙は、上流階級を中心に広く使われたが、安価なものではなかった。11世紀の詩人であった蘇舜欽は、自分が勤めていた役所で出た反古紙(書き損じの使い物にならない紙)を売って、その代金で宴会を開いたために横領で糾弾されている。反古紙であっても高値で取引されていた様子がうかがえる。
また、紙の製法は、朝鮮半島や日本、ベトナムなどには早い時期に伝播した。
ウィキペディア参照

 以後、グーテンベルグの「印刷術」の発明によって、世界は、「ことばの世界」へと移行するが、現在では、電子メディアの時代となり、人類史の上で、変革期を迎えている。

「ファースト・ジャパニーズ」・・・08/08/8(金)

 昨日は、朝3時に起きて「ひつじ日和」を書き上げて以後、どうも脳や体のエンジンが動かず、いつの間にか寝てしまい夕方となってしまった。岩井臨界学校引率と全国大会、InSEA大会と宿泊が続いたので結構、キテいるのであった。

 夜TVをひねると、サッカーをやっていた。ずいぶん荒れた芝生で、たいそうやりにくそうであった。おまけにかなりの高温と湿度で体力戦の模様であったが、日本は負けてしまった。
 その後、BSで「ファースト・ジャパニーズ」というドキュメントをやっていた。ファースト・ジャパニーズとは、海外でこれまで日本人がおこなわなかったことを実現し、活躍する一流の日本人という意味らしい。
今回は、タイで、「ムエタイ」(キックボクシング)の事務を経営する鈴木さんという日本人の話であった。
image002-1.jpg 鈴木さんは、もとムエタイのボクサー。けがのため引退し、ジムを経営し、外国人としてはじめてチャンピョンを育て上げた。ムエタイというのは、タイの格闘技という意味で、国技でもある。タイでは幼少のころから、ムエタイをおこなっている。奥深いタイの文化である。
 日本では、歌舞伎でも、政治でも、企業でも、「世襲制」のような様相を呈しており、そうした固定化された文脈から切り離されて、個人の力量で活路を見出す、ファースト・ジャパニーズは、視聴者にとって、風穴をあけるような気分にさせてくれる。
 また、さらに興味深かったのは、鈴木さんと選手の夢が、一体化して、活動が進められていることであった。
人間は、自分という閉じた個体でありながらも、自分のもっている価値や考えが、他者に共有され、また、継承されていくことのなかに深い喜び、満足を得る生きものなのではないか。逆に言うと、現在の自分とは、周囲の人、先達によって形成されたものなのである。
 最近、ぼくは、「教育」というものの存在理由や必然性をこうした点に感じるようになってきているのであった。

番組の関連サイトはこちらから

「ジャンジャン横丁」・・・08/08/7(木)

image001.jpg 5日の夜は、InSEAの準備が済んでから、「ジャンジャン横丁」に向いた。先発の庖刀先生、加藤先生、濱方先生、中尾先生、菅原先生らは、すでに、「ホルモン道場」で泥酔していた。たいへん狭いカウンターで、携帯を落としてしまい、あとで取りに行くと、誰かに踏んづけられたようで、液晶画面が、つぶれていた。(というわけで、現在、修理中で、5日夜から7日午前中までの連絡は、不明の状態である。その間連絡をしていただいた方は、あらためて連絡をいただきたい。)
SANY0017.JPG「泥酔」ではなく「ほろ酔い」です!
ウィキペディアによると「ジャンジャン横丁」は「新世界」の一角にあり、次のような歴史をもっている。
LinkIconジャンジャン横丁
明治以前は葱畑がある程度の荒地で、人跡も稀であった。1903年(明治36年)、天王寺及び現在の新世界で催された第5回内国勧業博覧会が、新世界の基礎といわれる。そういう点で新世界は、門前町の性格を持つ東京の浅草や名古屋の大須に比べ、より人工的な繁華街である(大阪で浅草や大須に近い性格を持つのは法善寺の門前町である千日前)。「内国」とはあるものの、国内外からの先端技術が寄せられた博覧会であり、一種の万博と言えなくもない。博覧会は5か月で入場者530万人という大盛況の内に幕を閉じた。
博覧会から5年経った1908年(明治41年)、大阪市電が恵美須町から梅田まで開通、次いで1911(明治44年)には南方の堺へ阪堺電気軌道(旧)が開業した。また、博覧会会場の南方には既に1889年(明治22年)5月、大阪鉄道(初代。関西鉄道を経て現・JR関西本線)が通じており、最寄駅は天王寺駅だった(新今宮駅は戦後の開業)。
1909(明治42年)、天王寺公園が博覧会跡地東側に設営され、西側の土地2万2000坪が、大阪財界出資の大阪土地建物に一括払い下げされた。払い下げ用地の北半にはパリに見立てた放射状3方向の通りを配し、中央部にエッフェル塔を模した塔を立てることになった。塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と名付けられた。一方で用地南半にはコニーアイランド(ニューヨーク)に似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク(月の園)」と命名した。

通天閣

image003.jpg1912年(明治45年)、初代通天閣およびルナパークが完成、7月に開業した。この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なり、また、現在のものよりも南側にあった。通天閣からルナパークまではロープウェイで結ばれており、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物だった。
 通天閣及びルナパークの開業により、新世界界隈には芝居小屋や映画館、飲食店が集まり出し、国技館も建設され(フェスティバルゲートのやや北あたり)、歓楽街の様相を呈するようになった。一方周辺地域でも1915年(大正4年)に市立天王寺動物園が、1918年(大正7年)には飛田遊廓( - 1958年)が開業するなど、一帯は一大歓楽地帯として認識されるようになる。そんな中でルナパークは振るわず、1923年(大正12年)に閉園となった。
 第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)1月、通天閣が脚下の大橋座の火災に巻き込まれて焼失。結局解体することとなり、鉄材は戦時供出に付された。加えて1945年(昭和20年)3月13日の大阪大空襲で新世界も被災・壊滅した。
戦後の1947年(昭和22年)、ジャンジャン横丁が先ず復興し、1956年(昭和31年)10月28日には二代目通天閣(現行のもの)が開業した。

 今回の大阪大会は、附属平野小学校でおこなわれたが、「新世界」近辺の小学校で、大会がおこなわれたならば、そこには、地域性の濃い、公立小学校の様子が、うかがい知ることができたように思う。こんなところにも、今回の全造連と日美連の共催の影響がみられる。

「今日から全国大会」・・・08/08/3(日)

 今日から全国大会。都図研役員は朝、東京駅に集合し大阪に旅だった。パソコンを持ち込み新幹線のなかからリアルタイムの実況レポートが始まった。担当の菅原先生も大忙しである。
080803_1348~01.jpg 全小図連、全国代議員会、共同開催会議が行われた。
 話しを聞いていると、組織の運営や成り立ちについて理解のない発言が目立つというか、そもそも構造的な把握なしに、願望や立場を表出しているだけでは今後の発展的な活動はのぞめないであろう。こうした傾向は都図研でも最近見られるところである。図工の組織論は一筋縄ではなかなかいかない。ままならない現状がそこに見えた。

「どら焼きとジャクソン・ブラウン」・・・08/08/2(土)

image002-1.jpg 夕方、高円寺を散歩していたら、「黒いどら焼き」を売っていた。生地に「炭」が入っているそうだ。はじめてみた。コーヒーと一緒に食べてみた。少しは、体の中が、浄化されただろうか?自分では、そんなに腹黒くはないつもりだが・・・・・。
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 ジャクソン・ブラウン(1948〜)のCDを買った。アコースティックな一品。黒いどら焼きと同じで?魂を浄化する。こういう人がいるなら、アメリカも悪くはない。

Alive In The World

I want to live in the world, not inside my head
I want to live in the world, I want to stand and be counted
With the hopeful and the willing
With the open and strong
With the voices in the darkness
Fashioning daylight out of song
And the millions of lover
Alive in the world


明日は、大阪だ。

「臨海移動教室」・・・08/07/30〜08/1(水〜金)

 引率で三日間、海に行ってきた。
 120名ほどの児童の安全を図りながらの指導は、担任の先生にとっては、実に神経を使う仕事である。大きな怪我、事故もなく無事終了した。
 図工でも同じだが、どんなすばらしい指導も、怪我、事故が起きると、無に帰してしまう。
image001.jpg 小生のようなおじさんには、海の引率は、けっこう体がしんどいのである。今年は、一番水泳のできるグループの担当で、泳いでいたら、なんと足首を捻挫?した。泳いでいて捻挫とは、普段の運動不足もさることながら、歳である。(2,3年前、キャッチボールをしていたら、肩をぐきっ。)いやはや、引退も近くなってきたと実感するのであった。
 夜のビーチファイヤーは、盛り上がっていた。写真は、レンブラントの夜景のようなものが取れた。「光」というものは面白い。
image003.jpg 朝は、4時ごろ散歩に出た。海は、広くて大きい。海辺に住んだら、あまり細かいことは考えないな、といつも思う。願望かな。
 8月に入ったが、バカンスはない。3日から、6日まで、暑い大阪に、全国大会とInSEA大会に臨む。

ひつじ日記

昨年度のコラムです。

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