「審査あんど穴澤氏のエッセイあんど勅使河原三郎」・・・2010/1/31(日)
「文部科学省の横を通って会場へ。文科省のビルは、いやー、でっかいですね」○昨日は、全造連の関係の審査が「発明・工夫協会」でありました。文部科学省の横を通って行くのですが、青空にその建物がそびえたっていました。それにしても、でっかい建物ですね。
ところで、先日、CCAAで、創造主義美術教育黎明期の実践「木水育男が指導した子どもの絵」展がありましたが、その後、鈴石先生より、「感想文」の提出を求められたのですが、穴澤編集長もエッセイを書いていて、「創美」について、的確な指摘をしていたので、紹介します。以下エッセイです。
「木水再興」に期待する
美術教育雑誌「美育文化」編集長 穴澤秀隆
1 分銅のとまった古ぼけた柱時計
「がらんとした畳敷きの土蔵のなかで息子の勉次が褌一つで翻訳をしている。……板の間のまっ黒い竹組天井から煤だらけの太鼓が下がっている。やはりまっ黒な框に沢潟紋の提灯箱、紅殻塗の中柱に分銅のとまった古ぼけた柱時計が掛かっている。」
福井近在の坂井郡高椋村一本田(現、坂井市丸岡町)に生れたプロレタリア作家、中野重治(1902-1979)は自身の転向体験を告白した小説『村の家』で実家の様子をこのように書き記している。
他方、戦後の美術教育運動のパイオニア木水育男は、1919年に鯖江市に生まれた。木水は中野より17歳年下であるので、言わばひと回り若い世代ということになるが、彼が指導した児童画から私たちが受け取るイメージは、『村の家』で描かれていたのと同様の、どうしようもなく鈍重で保守的な風土へのうずくような苛立ちと、それゆえ苛烈な反逆の魂であった気がする。
2 木水育男と創美
木水育男が実践した創造主義美術教育運動は、批評家、久保貞次郎らの提唱によって、1952年に設立された創造美育協会(創美)によって展開された。
それ以前、つまり、この国の戦前の美術教育は、明治の中葉以来のお手本を忠実に模写することを主眼としたいわゆる「臨画」とそれを批判し大正時代に始められた写生を中心にした「自由画」の二本立てであった。
このうち「自由画」は、その名に込められたごとく、個人の自由な感性の発露を賞揚したものであったが、その表現姿勢はあくまでもリアリズムであり、画題も風景、静物、人物といった西洋絵画のジャンルをそのまま導入したものだった。つまりは「オトナの美術」を教育的配慮として子どもに宛てがったものと言える。
これに対して創美が目指した児童画は、まずテーマを子ども自身が見いだすすること、そして、アカデミックな絵画表現にとらわれない子ども独自の表現を発見し、尊重したものだった。
このため、木水らの実践者がはじめに行ったことは、子どもの生活実感を指導者自身が共有することであり、それには教師自身が旧来の〈子ども/オトナ〉〈児童/教師〉という権力構造から解放される必要があった。そして、このスタンスは、さらにそれを規定している社会のくびきへの苛烈な抵抗を促すものとなった。一本田の中野重治の実家にあった「分銅のとまった古ぼけた柱時計」を、おそらく木水もまた背中に負っていたと考えるなら、この闘争の困難さはしみじみ推察できる。
3「木水再興」の意味
昨今、朝倉俊輔氏(福井県立敦賀高等学校教諭)らによって、木水育男を中心にした戦後の福井創美を見直す試みが精力的に展開されている。
この活動は朝倉氏の著書『木水育男(奥右衛門)と児童画−心のかよいと子どもの絵−』の出版(2008年)をきっかけに始められ、越前市民ホール(2008年)や京都造形大学での展覧会(2009年)として展開されたものだが、さらに今回はNPO法人市民の芸術活動推進委員会(CCAA=Committee of Citizen forArtistic Activities)の協力を得て、2010年1月15日から25日まで、東京・四谷のCCAAアートプラザ ランプ坂ギャラリーで「創造主義美術教育黎明期の実践—木水育男の指導した子どもの絵展」として展開された。
これら一連の「木水再興」の意味は、すでに美術教育史の記憶となっている創美を発掘し回顧することでもなく、ましてやそれによって今日の美術教育を他人事のように慨嘆し、その場しのぎの自己愛的満足に身投げするためでもない。
創美の精神を今日に喧伝することには、重大な意味がある。中身はもう書いた。端的に言えば、児童中心主義と創造(表現)主義ということだろう。けれども、これらの理念をこと新たに持ちだすとき、私たちは、なにがしか空疎な響きを首筋に感じてしまう。これにはたぶん理由がある。それは戦後美術教育というものは、はじめらかこの理解に立っていたはずだったからではないか。
だってそうだろう。平和と民主主義の希望にあふれた戦後教育がオトナ中心主義でよいはずはなく、子どもの表現が主体性を欠いた模倣では許されない。戦後教育の出発点では、創美のみならず、教育官僚たちすらも児童中心主義と創造主義を僭称していた。
けれども、その後の現実はそうではなかった。まったくそうはいかなかった。教育現場の管理主義、能力主義教育の台頭などにより、児童中心主義も創造主義も蹂躙され、換骨奪胎されてしまった。今日、私たちがこれらの言葉にうろ寒さを感じてしまうのは、理念のドグマ化を知っているせいだ。
朝倉氏らの活動の真の重要性も困難さにおそらくここにある。だからこそ、私たちは「木水再興」の志に共感を込めて期待している。
(あなざわ ひでたか)
○さて、今日は、フォーサイスのダンス続きで、「勅使河原三郎」さんの「Absolute Zero」をみながらのお別れです。
http://www.youtube.com/watch?v=IehdpI3wFkU&feature=PlayList&p=C86B8840097A310D&index=0
「教師は体力。いよいよ「都展」が迫ってきました」・・・2010/1/30(土)
「金曜日の夕日はとても大きく見えました。空気の関係でしょうか?その日によって大きさの見え方が異なるから不思議です」○今週は、代休もあり、火曜日からだったのですが…展覧会のかたづけからはじまり、出張などもあったので、たいへん疲れました。背中もパンパンになりました。また、「東京都教育委員会の指定・認定の研究・研修」の問題も入ってきてあわただしかったので、金曜日は帰宅して、バタンキューでした。
今日は、「発明・工夫協会」の審査があります。来週は、文京区の図工部会と都図研役員会が、青柳小学校であります。
恒例の「都展」もいよいよ迫ってきました。各地区の皆さんも準備を進めていると思います。「都展」は、東京都教育委員会が、予算化し主催する大事な行事です。「図画工作教育」が、保護者や都民の皆さんの目に触れる大切な機会(昨年は7日間で、40,586人の来館者があった!)ですね。
なんだか、またまた、忙しくなってきました。教師は、「体力」がないと持ちません。ぼくも何か体力づくりを考えないといけませんね。(自転車は無理かな(笑い))
○今日は、全国の「体力」が気にかかる皆さんと(笑い)、フォーサイス(William Forsythe)のソロダンスを見ながらお別れしましょう。こういうのを見ると人間は「身体」そのものであると感じますね。
http://www.youtube.com/watch?v=hDTu7jF_EwY&feature=related
「都図研城南大会実行委員会」・・・2010/1/29(金)
「熱心な運営委員の皆さん。大会に向かってがんばっています」○昨日は、都図研城南大会会場校の目黒区向原小学校で、実行委員会研究会があった。怪我で参加できなかったぼくもやっと顔を出すことができた。城南六区も城北と同じように大きな区である。ぼくは、全体会には間に合わなかったので、各分科会に挨拶まわりをした。
5時からは、運営委員会で、各区の運営委員が、大会に向けて検討していた。前回城南大会の実行委員長、内野御大も参加して、反省会では、芋焼酎を一升空けてしまった。まだまだお元気ですね。
やや参加者が少なかったが、城南地区各区の若い先生方もどんどん参加して、大会を一緒につくりましょ
「映画『トントンギコギコ図工の時間』の内野大先生。久しぶりにお会いした。絶好調の元気さでした。昔はこうしたこわもてのおじさんがいっぱいいましたが、今は人員がすっかり若返っていますね」う。図工教師として、一生の経験を得ることができます。ほんとです。みんなでいい大会がつくれたらいいですね。よろしくお願いします。
○今日は、城南地区のがんばっている先生方と京都造形芸術大学院長の浅田彰さんの「入学式の挨拶」を聞きながらお別れしましょう。図工や図工教師の本質と全く同じことを言っていて興味深いですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=XBBAIyetV9M
「がんばれ新採先生&城南大会実行委員会」・・・2010/1/28(木)
「昨日も夕焼けがきれいでした。肉眼で見ると富士山がくっきり大きく見えるのですが、カメラにとると小さくなってしまうから、不思議ですね」○昨日は、久しぶりに学校の研究会の分科会に参加した。何回も指導案を検討し、何度も書き換えている。なかなかたいへんな作業である。昨日も、3時45分から7時半頃まで検討を重ねた。途中、頭がぼーっとしてきたが、皆さん、終わった後、それぞれの事務仕事をしていた。すごいがんばりである。
新人の先生は、先輩である先生方のさまざまな指導法を聞きながら、少しずつ授業についての理解を深めていくのだろう。全国にはたくさんの新人の先生がいて、毎日がんばっているのだろう。東京にも新人の図工専科の教師がたくさんいるであろう。失敗は成功のもとである。楽しみながら、試行錯誤して専門性を高めてください。
○今日は、城南大会の実行委員会研究会が、目黒区向原小学校で開催される。まだ、事故やスケジュールの関係でぼくは顔をだしていない。今日は参加してご挨拶しようと思う。3月、4月には、異動があるので、5月には、人員面で再組織化し、より具体的な内容に踏み込んでいくと予想される。城南地区の先生方もがんばっている。
「展覧会かたづけ」・・・2010/1/27(水)
「片づけが終わった夕方、遠くがすけて見えました。空気が澄んでいるときは、富士山がみえると、なんだかうれしくなります。画面の真ん中のうっすらとした山が富士山です。」○昨日は、一日かかって体育館や学校の作品をかたづけた。1時間目から主事さんとぼくで、絵をはがし、午前中で各学年に搬出してもらった。午前中には、パネルや台などの大物を残すのみとなって、午後は、5年生と職員の皆さんで、体育館を元通りに復帰した。校舎の窓一面の「ハート」もすっかりはがして、学校は再び元の学校となった。夜は、週初めにも関わらず、皆さんに打ち上げをしていただいた。忙しい中、ありがとうございました。
2日間のつかの間の祝祭的な空間は、消えてしまった。何となくさびしいが、消えてしまったものたちが、心の中で記憶となって留まっている。展覧会は、うたかたの夢のような時空間であった。
「映画『ぐるりのこと』」・・・2010/1/26(火)
○月曜日は、代休であった。学校に行って、少しあとかたづけでもしようかなと思っていたが、体が動かない。無理をしないで、休息することにした。
そこで、映画『ぐるりのこと』(監督・脚本、橋口亮輔。2008)をみた。普通の夫婦の物語なのだが、そのフツーの生活のなかに潜む「生きることの襞(ひだ)」がみごとに描かれていた。最近みた中では、ぼくには傑作と映った。
絵描きくずれの主人公、「リリー・フランキー」がなかなかいい。(ちなみにリリーさんは、武蔵野美術大学出身のイラストレーター、小説家、音楽など多彩な領域で活躍する方。近年では小説『東京タワー』が爆発的にヒットした記憶は新しい)
リリー・フランキーさん演じるふわっとしてよりどころのない亭主と木村多江さん演じるまじめ過ぎて心身症になる女房の夫婦が、徐々に絆を回復?いや、信頼を構築していく物語である。
知り合いの紹介で、それほど気乗りしないで、メディアの裁判所付きの似顔絵画家となったリリーは、徐々に、裁判所で繰り広げられるさまざまな事件に触れることで、だんだんと社会性を帯びていくようにぼくにはみえた。また、実在の事件を扱っている点も、興味深かったし、「伏線」のはりかたや母親や父親などさまざまなひとの人生が交錯してみえてくるところもよかった。
ぼくのように、ある程度、年を重ねた方がみると、身にしみるかもしれない映画であった。
○今日は、全国の「人生が身にしむ年頃」の皆さんと映画の主題歌であるAkebosiの『Peruna』を聞きながらお別れしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=_0jqfiwA3J8
「CCAA「木水育夫展」あんど浅川マキさん訃報」・・・2010/1/25(月)
「車椅子の野々目圭三先生。創造美育運動の生き証人である。思い出しながら、ゆっくりと語る。暗示的な語り口が印象的。死ぬ前に、言い残しておきたいと述べられた」○昨日は、CCAAで創造美育運動の中心メンバーのひとりである「木水育夫展」のシンポをみた。パネラーは、国定秀行氏、朝倉俊介氏、鈴石先生、そして、野々目圭三先生が、話をされた。ぼくのような若輩には、映画や久保貞次郎の著作を通して、また、鈴石先生や野々目先生を通して、「創美」について、おおざっぱな情報だけしかなかったのだが、木水さんの指導作品は、「新しい絵の会」なども連想させるものが混じっていた。非常に丹念に彩色された作品群は、さまざまな要素を含んでいた。また、今日との時代状況の変化なども感じさせるものであった。
ぼくが、一番印象に残ったことばは、野々目先生の「抗う(あらがう)」という言葉であった。「抗う」という精神文化が、こうした作品群を生みだしたというのである。
その指導方法については、不明なところが多いのであるが、「創美」の核心は、「教師」の存在であり、その教師の「抗う精神」といったものだ、と野々目先生は、述べていると感じた。これは、現代では、もっとも圧殺されてしまったものかもしれない。
秋頃には、今度は、野々目圭三先生の指導作品展を企画する話も持ち上がっていた。
「木水育夫指導の「教師が生徒にビンタしている」代表作品。この作品を例示しながら皆さん話された。表情や色彩、ポーズ、形の比例関係など、作者である生徒の心理が緊張感をともなった表現となっている。野々目先生は、この時代の指導作品がよく、この作品には空間があると述べられた」
○ぼくは、今日は「振り替え」で休みですが、週初め、がんばって仕事をされた皆さん、今日は70年代に独特の雰囲気で、寺山修司などとも仕事をしていた故「浅川マキ」さんの『少年』を聞きながらのお別れです。この画像は、アニメションもいいですね。
「少年」
夕暮れの風がほほをなでる
いつもの店にゆくのさ
仲のいい友だちも少しはできて
そうすてたもんじゃない
さして大きな出来事もなく
あの人はいつだってやさしいよ
どこでくらしても 同じだろうと
わたしは思っているのさ
なのにどうしてか知らない
こんなに切なくなって
まちで一番高い丘にかけてくころは
ほんとに泣きたいぐらいだよ
まっかな夕日に舟がでてゆく
わたしのこころに何がある
「展覧会終了!」・・・2010/1/24(日)
「よくみると、子どもの作品の細部には、子どもの思いがひそんでいる。棟方志功みたいに顔を近づけてみると、子どもの目線になる。面白い発見がある」○骨折で、できるかどうかわからなかった展覧会も無事終了しました。講師のK先生、学校の先生方の協力のたまものです。また、遠方からいらした先生方もご参観いただきました。本当にありがとうございました。図工専科としての「責任」が、やっと果たせた感じでほっとしています。参観の保護者の皆さんも、子どもの表現のよさを味わっていただけたようです。
○今日は、CCAAで、「木水育男が指導した子どもの絵」展での2時からのシンポジウムで、野々目圭三先生がいらっしゃるので、ぼくも参加しようと思っています。お時間あるかたもぜひご参加を。
○さて、今日は、今年度、ぼくも含めて、展覧会や仕事にがんばったみなさんと、ハナレグミの『いかれたBaby』(Fishmanns)を聞きながらお別れしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=l5MLbJJfpo8&feature=related
「真実は細部に宿る」・・・2010/1/23(土)
○展覧会で会場にいると作品をみる時間が長くなります。長いと顔を作品に10センチ近くまで、近づけてみたりします。すると、そこに、2〜3ミリの人物が列をなしていたり、粘土をまるめた石が、きれいに並んでいたり、洗濯物があったりします。大人は、全体で見る癖がついていますが、近視眼的にみると、そこに、その子世界が広がっていたりするから、驚きです。俯瞰的にものをみるのではなく、目の前のスペースの数センチ平方の広さのなかで、子どもは、世界を紡いでいるともいえます。こうしたミニ世界が、隣接され、広がっていくところに子どもの表現の特質があるかもしれません。昨日はそんな発見をしました。
また、お知らせなど出していないにもかかわらず、遠方より参観していただき、励ましをいただいた先生方ありがとうございました。
○「教員の評価」研究について、興味深い話を聞いた。「管理職の評価」が高く、教員の「自己評価」が、低い教師が、「児童(保護者)からの評価」が高いという結果を、データをもとに、数量化し、一般化した研究だそうである。膨大な労力をつぎ込んで、数値化するのであるが、その煩雑な手続きは、横においておくとしても、要するに、ある物品を「品定め」して、レッテルを貼っていく作業に他ならない。こういうのを「悪しき科学主義」といい、人間の内的な構造と結び付かない表層的な研究という。
より大事なのは、教師の指導力の向上が、たんに、知識的な情報の獲得だけでは、促進されず、むしろ、教育実践のなかで、教師の共同性(教師文化)をとおして、醸成されていくという点にある。
「展覧会(金曜日・土曜日)はじまり!」・・・2010/1/22(金)
○昨日は、9時過ぎまでかかって、体育館の展示がほぼ終了した。1・2時間目は、1年生2年生合同で、色水をつくり、校庭に並べた。3,4時間目は、3年生。入り口の坂道に「なんかできないかな?」と講師のK先生発案の題材「カラフルスノーマン」をつくって展示した。5時間目は、2組がおこない、ぼくは6時間目は、校庭で、5年生の共同作品を空中に展示した。午後からは、各学年の展示をおこない、皆さんの協力のもと、展示が出来上がった。金曜日、土曜日と学校公開おこなうため、先生方大忙しであった。パンやピザの差し入れなどもあり、協力のもと今日を迎えた。
「風がすごく強いのでだいぶからまってしまった。上がった時は、たいへんきれいで、歓声が上がった」
「本校は、希望の坂という坂があって、だいぶ歩いて玄関までつくのだが、その途中にカラフル・スノーマンを設置した」
「いよいよ明日から展覧会(金曜日・土曜日)です!&野々目圭三先生」・・・2010/1/21(木)
○昨日は、9時まで、皆さん展覧会関係の仕事していただいた。今日が作品搬入なのだが、平面作品などを展示してしまう学年もあった。絵が並ぶと感じが出てきますね。
最近は、展覧会の準備も「単線系」ではなく、担任の先生方も、いろいろな仕事と並行しておこなっています。一昔前に比べて、確実に学校は忙しくなっているのだなあと実感します。また、特に三学期は、行事が立て込んでいるので、スケジュール的には厳しいかもしれません。
遅くまで、先生方、台紙の裏うちをして、ガンタッカーで、留めていました。ありがとうございます。
「映画『絵を描くこどもたち』(監督羽仁進、岩波映画、1956)は、戦後の美術教育のはじめの記念碑的作品。その青年教師が、野々目先生である」○CCAAで「創造主義美術教育黎明期の実践「木水育男が指導した子どもの絵」展」(1月15日(金)〜25日(月)10:00〜18:00/21日(木)休廊)を開催中であるが、鈴石先生よりメールあり、「24日(日)14:00から」のシンポジウムでは、都図研の大先輩で、映画「絵を描くこどもたち」の主演の教師、野々目圭三先生もご高齢を押して、来られることになった、とのこと。ぼくも参加しようと思っています。歴史をナマでみられるたいへん貴重な機会かと思います。ぜひご参観を!
「城北大会研究報告会・展覧会準備」・・・2010/1/20(水)
○昨日は、城北大会の研究報告会があった。ぼくは校内展準備のため参加できなかったが、岡田研究局長のメール報告では、大会を行って終わりではなく、研究を共有していこうというスタンスがあり、たいへん前向きで、エネルギッシュな報告会であったようだ。思えば、ほとんどの方が、大会以前は「都図研」そのものが、どういうものか理解していない方が多かったのではないだろうか?
2年間に渡る研究を通して、都図研とは、「現場の図工の先生たちが、寄りあい、よい図工をするためには、どんなことをしたらいいのだろう」と知恵をしぼりながら活動する場であることを理解していただいたのではないだろうか。ぼくは、こういう理解こそ大会をおこなった成果でないかと考えるのであった。これからも、図工に関わる先生方の協力で、楽しい図工教育が創造できればと思います。
「6年生の空気のオヴジェ。体育館の中央に立ててみた。シンプルででかい!年々、あまり凝らないで、シンプルになっていきますね。学校全体が、回遊式の会場の感じで、散歩できるような空間になるといいな。個々の子どもの作品を味わいつつ、環境にもふれられるような感じの」○共同作品を少しずつ展示したり、その準備をしたり、表示関係を作成したりした。展覧会も、じわじわっとできつつあるといった感じです。ぼくは、最初に「計画」があり、ぐわっと仕事を進めるタイプではなく、やりながら「これもつくらなくちゃ…あれもあったな…」というタイプなので、非効率で、まわりの先生には迷惑をかけるところがあるかもしれませんね…「牛歩の歩み」で、金曜日・土曜日の展覧会が近付いてきます。
「展覧会会場づくり・城北大会報告書・H21年度都図研活動報告書」・・・2010/1/19(火)
○昨日は、展覧会の会場づくりでした。パネルや机、立体の台面づくり、共同作品の一部の展示などをおこないました。子どもたちや担任・専科の先生の協力で無事終了しました。ぼくは、天井にロープを付けられないので、皆さんに、ボールを投げて通してもらいつり下げました。しかし、一人で作業している時、思わず、かなり重いものを持ち上げたので、背中の筋肉がぎくっとなりました。危ない、危ない!
木曜日に作品を搬入、展示し、金曜日、土曜日の開催となります。「案内状」は、全然送っていませんが…新人の先生には、展示の感じや題材について、少しは、参考になるかもしれません。(時間外の参観の場合は、辻まで、電話していただくとみれます。ご遠慮なく)
○「城北大会報告書」が、玉置先生から、メールで配信された。はじめ、ダウンロードできなかったのであるが、やっとダウンロードできました。いい「報告書」ができそうなので、あとは、しっかり校正ですね。
また、玉置先生は、「H21年度都図研活動報告」のまとめもおこなっているので、たいへんですね。がんばってください。こちらは、そろそろ締め切りですね。皆さん、「締め切りは守りましょう!」(笑い)
○今週は、「城北ブロック」と「事務局」の出張が入っていますが、ぼくはちょっと行くのが難しそうです。皆様、よろしくお願いします。
○さて、今日は、「つじあやの」の『頼りない天使』(Fishmans)を聞きながら、緊張感をゆるめながらお別れしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=VQuI7gOGGBA
「『美術手帖2月号』&今週末はいよいよ展覧会」・・・2010/1/18(月)
○『美術手帖BT2月号』に杉山裕子先生の「商店街の旗」という実践が紹介されました。学校のある地域の商店街を飾る「旗」をすでに5年に渡って実施しているそうです。杉山先生は、ぼくが足立区にいた時、新規採用できたので、すでに10年近くになるのではないかな?あっという間に、中堅の仲間入りですね。
『BT』では、「子どもと美術」というシリーズを連載していただいていますが、第1期は、すでに『図工室にいこう』(美術出版社、2008)という形で出版されています。今年度のものは、現場からの第2期というかたちでの連載となっています。
実践者もベテラン〜中堅〜若手で実践報告がなされています。鈴木陽子先生、本間先生、金子祐佳先生、雨宮先生、大畑先生、金子大介先生、玉置先生、杉山先生、平田先生(3月号予定)、山田先生(4月号予定)の面々です。
今後、10年間の図工教育を担い、展開していく重要な世代であるとぼくは思っています。「図工教育は現場の事実の中にある」といったのは、大先輩の石井弘先生ですが、ぼくも図工教育はみなさん一人ひとりの現場の実践の中にあると考えています。
そう言えば、今度都図研の副会長になる平田耕介先生は、「長野県美術教育研究会」(CCAA)での挨拶で「新しい風を吹かせたい」と述べ、喝采を得ていました。ぜひ皆さんで、ネットワークをはり、がんばってください。
○さて、週の始めです。みなさん今週もかんばろうね!キヨシローとハナレグミの『さよならカラー』を聞きながら、今日はお別れです。
http://www.youtube.com/watch?v=uVCUTpkFqhY&feature=related
「トーテムポールのアクリルケース&資本主義&中村元先生」・・・2010/1/17(日)
「すごいたいへんだった作業を思い出した。こうして手入れをしてくれるとうれしいですね。こうしてみると、昔はぼくも馬力がありました!(笑い)」○天気はよいが、たいへん寒い中散歩した。10年前に勤めていた学校のそばの公園をとおると子どもたちとつくった「トーテムポール」がまだあった。みるとアクリル板のケースで保護がしてあった。電柱2本をみんなで、デザインして削ったものだ。「たいへんだったなー」。主事さんにも手伝ってもらった。雨ざらしの状態だったので、だいぶ痛んできた。それでケースをかぶせてくれたらしい。
○NHKをみていると映画監督「マイケル・ムーア」の特集をやっていた。ドキュメンタリー映画の勇である。今度のテーマは「資本主義」だそうだ。アメリカは、1パーセントの金持ちが、富を独占している社会だそうだ。「10切れしかないパイのうち9切れを一人が取り、残りを全員で奪い取る現代社会の構造」(HPより)から生まれる格差が、人々を苦しめている原因だとする。明らかに行き過ぎた資本主義は、「民主主義」に反する行いを生んでいるのだという。それは「悪の制度」であると述べている。
また、メディア、権力は、人々を「不安」の心情に落とし込み、立ち上がるこころをなえさせて、思うままに操縦していると述べていた。(なるほど!)
マイケル・ムーアさんの話をきいているとたいへん素朴なひとだと思った。素直に、人生の問題を考えているひとなのだ。この社会で起きているすさまじい不正を彼は、直視して立ち上がる数少ないひとである。
『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』HPは下記のアドレスです。
http://democracynow.jp/submov/20090924-1/
○「ユーチューブ」で、哲学者「中村元」先生の映像をみつけた。仏教学の世界的権威で、すごすぎて、説明できないくらいの大学者。そのすごさは、次のエピソードにも現われている。
「中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。完成版は4万5000項目の大辞典であり、改訂版である『広説佛教語大辞典』では更に8000項目が追加され没後全4巻が刊行した。」(ウィキペディアより)
「寝るとすぐ朝になる」・・・2010/1/16(土)
○一週間お疲れ様でした。最近は、夜寝るとバタンキューで、気づくと朝になっています。あんまりすぐ朝になってしまうので「時間がもったいないなあ~」などと思ってしまったりします。少し、寝つきが悪いくらいの方が、時間が長く感じられますね。
ところで、足立区にぼくがいた時、新任だった若手のS先生の無事、女の子を出産されたようです。おめでとうございます!!ついこの間まで『子ども主義宣言』などの編集作業を一生懸命してくださった若いS先生もお母さんになりました。これからは、お母さん役もがんばらないといけませんね。ぼくの「疲れ」も年をとったということですね(笑い)
「『新春 とらの巻』という墨で書いた題材です。なかなかかわいくできました」○あと一週間で校内の展覧会が迫ってきました。学級の先生方も、台紙や名札などを貼り始め、あわただしくなってきました。いろいろな行事をぬっての作業なので、先生方もたいへんですね。(ホント、先生方はがんばります!)
来週は、会場づくり、作品搬入、共同作品展示など、週末の開催に向けて、最後の作業がおこなわれます。どんな展覧会になるでしょうか?自分でも楽しみです。でも、あまり気張った展覧会でもありません。フツーの子どもの感覚が出ればと思います。
一応展覧会の作品づくりが終わった6年生の、今日は、今年はじめての授業でした。「とら」をテーマに墨使い、和風ティストで「好きな字」と「とら」組み合わせてをかきました。なかなか味のある作品になりました。でもこれは展覧会には出品しません。
「冬は富士山がほんときれいにみえるアンド校内展覧会」・・・2010/1/15(金)
「寒いけど、空気が澄んで、夕焼けもきれいだ。夕焼けでも同じものは二度ありませんね」○昨日は、寒かったが、空気が澄んでいて、この学校に勤務してから一番、富士山がきれいにみえた。手前の箱根?丹沢かな?の山も雪がかぶっているのがみえた。その昔は、マンションはなく、畑や雑木林がずっと続き、富士山がそびえたつ景観がここにあったのかと思うと、現代は、ずいぶんごちゃごちゃとしてしまったのだなあと思います。
「展覧会の共同作品の空気のオヴジェを膨らませてみた。図工室いっぱいになった。かなりでかい!」○展覧会の6年の共同作品に空気を入れてみた。大きく膨らんだ。空気漏れをチェックしたが、一応、大丈夫みたいである。昔に比べて、ビニルの厚さが薄くなっているようで、穴があかないといいなあ。これを体育館の中央にぶったてる。立てるのがけっこうたいへんです。来週末に展覧会が迫ってきている。が、かなり遅いペースで仕事をしている。大丈夫かな?少し心配です。
「文京図工部会あんど素朴な歌声」・・・2010/1/14(木)
○昨日は、駒元小学校(大道先生)で、区の図工部会があった。「都展」や「研究発表会」の打ち合せがあった。いよいよ区小研でも年度のまとめの時期がきているようだ。
反省会は、12月の部会での忘年会は、復帰すぐだったので、失礼したが、今日は、新年初の部会なので、反省会に出たのだが、皆さん、昨日はさ〜っと引いてしまい、残念ながら6名しか残らなかった。おじさんたちは、体調不全?で、疲れ気味、若者は?よくわからないが、近年では、反省会に参加するひとはかなり少なくなっている。
昔みたいに、いばったおじさんは少なくなって、話は、ものすごく「ホント」で「なるほどソウダッタノか!」という話がでるので、面白いと思うのだが…
「表向きの話」と「背後に隠れてしまった話」というものがあり、後者の方が、実は、自分の仕事への参考となるものが多い。「図工教師の文化」は、「知識」だけではなく、「生き方の問題」が大きいのだから、そうしたものに触れないとわからないものが、多いのではないだろうか?ぼくの経験では、こうした反省会でのうんちくで育った方ことの記憶が大きい。
今日も、大道先生の多岐にわたるうんちくは、たいへん面白かった。それに行った店の中華料理もたいへんうまく、オマケに安かった。
○さて、あと二日ですね。たいへんおだやかで素朴な調子の「ハンバートハンバート」の『同じ話』を聞きながらのお別れです。皆さん頑張りましょう。ぼくもがんばります。
http://www.youtube.com/watch?v=15dJtvSMC6k
オマケです。同じく「ハンバートハンバート」の『春一番』(原曲、西岡恭蔵)。これは、すごく昔の唄ですが、おじさんたちには、懐かしい曲です。このカバー、なかなかいいです。西岡さんは、すでに亡くなっていますが…
http://www.youtube.com/watch?v=prfm3LzJsrQ&feature=related
亡き西岡恭蔵さんがでたなら、さらにオマケ。こっちはまだしぶとく元気にがんばっている加川良さんが出てます。「ハンバートハンバート」の『夜明け』です。これをみると、音楽の世界では、ベテランと若い世代の交流があるみたいですね。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=cr6gqH3VCaw&fmt=18
「映像アーカイヴ」・・・2010/1/13(水)
○水島先生からおとといの「キヨシローの件」の返事のメールをいただいた。その中で「映像のアーカイブ」も都図研の事業として考えたらいいのではないかという提言があった。
現在、都図研の研究資料は、霧散しそうだったところを、鈴石先生のCCAAで「資料センター」を引き受けていただいていたおかげで、少しずつ保存ができている状態となっている。思えば、会長や理事長は、年とともに、変わっていったり、異動したり、退職したりしてしまうため、これまでの全てが残っているわけではない。が、こうした一定の場所があれば、保存が可能になる。
歴史や資料というのは、刹那的に考えてしまうと、残らないが、10年…50年たった時点で、貴重なものとなる可能性を秘めたものである。現在、記述されたものは残しているが、ビデオなどの映像記録は、授業研究やシンポジウムなどの際に、いつも撮っているのであるが、それを保管することに気が回っていなかった。これまでの数々のビデオの記録は、どこにいってしまったのだろう。
映像のアーカイブは、来年度の都図研の課題のひとつですね。
個人情報の問題などもあるので、HPではアップできないが、都図研の「資料センター」に行けば、その映像記録がみられるというのは、今後、図工を研究していくうえで重要ですね。
「映画『トウキョウソナタ』」・・・2010/1/12(火)
○『トウキョウソナタ』(2008)という映画をみた。(監督は黒沢清。脚本マックス・マニックス、 黒沢清、田中幸子。田中幸子さんは東京芸術大学の映像研究科一期生らしい)
かなり暗い映画で、それもそのはず、テーマは「家族の崩壊」。現在の共同性の喪失した社会を描いている。45歳以上のおっさんは(オレか!)、かなりリアルな感覚を実感するかもしれない。
リストラされた父親(リストラを個人の能力ととらえているところはこの映画の問題かもね)、妻、長男(アメリカの軍隊に反対を押し切って入ってしまう)、次男とも、それぞれお互いを理解しあえる回路をもっていない。
家族という形式はあるが、人間的なコミュニケーションが欠如しているのであった。物語は、負の方向へ、負の方向へと導かれる。どんどん絶望的になってゆく…が、崩壊、死に直面することによって、かすかな、希望の匂いが立ち上がってくる。再生への予感といったもので映画は締めくくられる。
ぼくとしては…「社会問題」と「映像表現」がもう少し説得力あるように、関係し、展開してくれればよかったというのが感想です。
でも、映画の最後を締めくくるドビッシーの『月の光』は、すごくいいですね。再発見です。(最初の窓が風であおられるシーンと最後がいいですねこの映画は)
○学校がはじまりましたね。今日一日がんばった皆さんと、映画ではピアノでしたが、ここでは、David Oistrakhのヴァイオリンの『月の光』を聞きながら、優美にお別れしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=SKd0VII-l3A&feature=related
「『ロック画報おまけ清志朗CD付き』をたぶん(まちがいはない!)送ってくれた水島先生!ありがとう!!」・・・2010/1/11(月)
『ロック画報10(2009,7発行)スペシャルサンプラーCD70年代RCサクセション完全未発表ライブ』○おとといCCAAから帰えると、「アマゾン」から本が届いていた。『ロック画報』で、RCサクセション特集。オマケの「未発表曲CD」までついている。「OH~!」などと喜んでいたら…けれども「ぼくは、注文したっけ?」よくアマゾンで本を買うので、当たり前に受け取ったが…最近はもの忘れもはげしいので…調べてみると、注文した記録がない???
しばらくたって、「そう言えば、そうだ!!」水島先生(聖心女子大学)が、「お見舞い」で未発表曲のCDを焼いて送ってくれたのだが、読み込めないので、また送付してくれる予定であったことを思い出した。送り人の名前はないが、こんなマニアックで親切な人と言えば水島先生しかいない。「ありがとうございます!!」
そんなことで、昨日はキヨシローの初期の歌を聞き入った。
6曲入っていたが、4曲は初めての曲。『忙しすぎたから』『ぼくの自転車のうしろに乗りなよ』は、名
「初期のRCの、1『つまらない仕事』2『ぼくとあの娘』3『いそがしすぎたから』4『内気な性格』5『もっと何とかならないの』6『ぼくの自転車のうしろに乗りなよ』のライブ未発表曲が入っている」曲ですね。昔からよく聞いていました。
気になったのは、初めて聞いた『ぼくとあの娘』です。出だしの「あの娘はズベ公で ぼくはみなしごさ…」一気に入りこんでしまいました。
清志郎の「声」は、とても切迫していて、魂から絞り出したような声です。それは、けっして上手いという尺度では、測れないものです。また、きれいでもないですね…でも、これでいいのです。
清志郎の曲には「上から目線」(権力的な目線)が感じられない。自分の生きている地表から湧きあがってくる歌です。それに恥ずかしいくらいむき出しですね。(図工も同じですよね)
『ロック画報』の曲解説によると…
清志郎の創作上のメインなテーマである「世間に裏切られたり、理解されない孤独感(を)共有するもの同士の心のつながり」を切迫感溢れるバラード。(中略)「あの子はスベ公で、ぼくは身なし子さ とっても似合いのふたりじゃないか」という歌詞の通り、清志郎が二番目につき合った池袋のスケ番であった彼女のことを歌っている(連野穣城郎『GOTTA!忌野清志郎』角川文庫より)無防備という言葉が似つかわしいほど剥き出しで赤裸々な清志郎のヴォーカルが胸に突き刺さるテイクだ。泉谷しげるが当時、ライブで一番印象深かったRCのナンバーとしてこの曲を挙げているが、たしかに「汚れたこころしかあげられないとあの娘は泣いていたきれいじゃないか」なんて清志郎にしか書けない世界だ。(RG164。(を)挿入は辻。「本」はこういう解説が読めたりするのがいいところです)
「世間に裏切られたり、理解されない孤独感(を)共有するもの同士の心のつながり」とは、かなり重要なテーマですね。フォークやロックやブルースが人々のなかに生まれてきた根源的な理由です。もしかして、穴澤流に言えば、戦後の「人々」の最も重要なテーマかもしれません。
「ぼくとあの娘」
あの娘はズベ公で ぼくはみなしごさ
とっても似合いの二人じゃないか
あの娘は悪者で ぼくは嘘つきさ
とっても似合いの 二人じゃないか
しろい眼でみられるのなんか
もうなれちまったよ
だから本気で だから本気で
あたためあっているんだね
あの娘は泣き虫で ぼくは弱虫さ
とっても似合いの 二人じゃないか
しろい眼でみられるのなんか
もうなれちまったよ
だから本気で だから本気で
あたためあっているんだね
汚れたこころしか あげられないと
あの娘は泣いていた
きれいじゃないか
『ぼくとあの娘』(RCサクセション)は、下記のアドレスで聞けます。
http://www.youtube.com/watch?v=3WJFrqAIlqo&feature=related
「CCAAワークショップ大盛況!・H21年度活動報告書作成」・・・2010/1/10(日)
「参加者でごったがえす会場…100名前後は参加しているかもしれないです。皆さん楽しげに、一生懸命作品をつくっていました。大人も子ども、作品をつくることは、同じみたいですね」
○昨日は、CCAAで「図工だいすき子ども美術展冬展」の「ワークショップ」を開催した。「A(柴﨑・中村)絵の具,B(鈴石・辻)版,C(庖刀・南)糸・布,D(高村・辰野)針金・番線,E(時任・横内)紙」で、「店」を開いたのだが、たくさんの参観者が、堪能していたようだ。
3時間のワークショップだが、ワイワイガヤガヤの熱気のうちに、あっという間に終了した。映画監督の
「掘り進み版画。鈴石先生考案の「見当(けんとう)」の簡単で紙が、ずれない方法で行い、なかなかいい作品がいっぱいできました」野中眞理子さんも親子ずれで参加していたり、「こどもの城の」有福さんや岡さんも見に来られていたりした。「授業研究」ばかりではなく、こうした「実技研修」的なものも、新人の先生方が増える中では、図工の専門性を支える大切な活動となりつつあるようだ。経験年数の浅い先生も話していると参加しているようで、いろいろな質問を受けた。具体的な方法など、こうした場で、学んでいるようであった。
今後、「授業研究」と「実技研修」は、都図研でも、研究・研修の二側面になっていくと考えられる。「冬展」のほうも第2回となり、昨年に比べ、参観者数も増えたようだ。繰り返しによって、展覧会も定着していくのだろう。
ワークショップ終了後、搬出作業もおこない、くたくたとなった土曜日であった。かたづけや搬出を手伝ってくれた先生方、ほんとに、ありがとうございました。
「紙コーナーでは、「パクパク」をつくっていた。手にはめて、おどける時任先生!」
○「平成21年度東京都図画工作研究会活動報告書」の方も、いろいろな局の原稿関係のメールが飛び交っているので、皆さん、がんばって執筆しているようである。こちらは、3月の理事会での配布を目指している。現在、玉置一仁副会長が、編集をおこなっている。各担当者の皆様、ごよろしく執筆のほど、よろしくお願いします。
○さて、先週、学校がはじまって、頑張った全国の図工好きの皆さん、今日は、ハナレグミの『トンネルぬけて』(原曲どんと)をのんびり聞きながらお別れしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=FSuegqGbkTQ
「ぼくの背骨・がんばれ新採・CCAAワークショップ」・・・2010/1/9(土)
「写真の真ん中あたりの、胸椎4番目5番目6番目が、四角ではなく。変形してつぶれている。背骨の右側は、上下に神経が通っている。ここが傷つくヤバイ!が、一応大丈夫だった。」○昨日は、始業式だったが、朝一で病院に検診に行った。レントゲンをみせてもたった。携帯でパチリ。背骨の胸椎がきれいにつぶれている。現在の体調は、だいぶ固まってきたので、3月に向かって、徐々にコルセットがはずせるように、していく。しかし、作業が伴うときはコルセットをする。授業中はしていた方が、ようさそうですね。完治までは、今少し時間がかかるようです。
○「がんばれ新採!」
4日付の「スズムシ日記」(前会長、鈴石先生のブログ)では、
http://suzuisi.blog.so-net.ne.jp/
「毎日新聞(11月15日版)」の記事をもとに、「試用教員の退職315人」と題した記事が掲載されていました。
それによると「教員は、一般の地方公務員(半年)より長い1年の「条件付き採用期間」を経て正式採用が決まる。08年度は小中学校・特別支援学校など23,920人が採用され、このうち1年後に正式採用されなかった315人は1,32%(前年度比0,06ポイント減)を占めた。10年前(98年度)は0,27%の37人で、8,5倍に達している」そうです。
また、「315人のうち依頼退職者は304人(前年度比11人増)。病気が理由の先生は93人(前年度より10人減、しかし5年前はわずかに10人、10年前は5人だった。)文科省が今回初めて精神疾患の人数を調べたら、「病気」の95%を占めている」。
さらにまた、新採以外では「自ら望んで降任した教員も過去最多の179人(前年度比73人増)。主幹からの降任が89人、副校長・教頭が84人。降任の理由は、精神疾患を含む「健康上の理由」が95人(半数以上)。教育委員会から「指導力不足」と認定された教員は306人もいる」そうです。
新採の先生の退職が急増し、その理由は、「精神疾患」で、また、新採以外の降任も過去最多で、半数以上が精神疾患を含む健康の上の理由だそうです。
いろいろな理由があがるでしょうが、「個人の理由」に帰さないで、「教員の環境の問題」として考えると、「自己責任論のまん延した社会風潮」「保護者などの意識の変化」「職務の多忙化」「子どもの変化」「教員を囲む精神的な体制(学校や研究会)」…などがあげられるでしょう。
ぼくのようなぼんくらが、30年もやってこられたのは、自己責任論はまだ強くなく、保護者などもまだうるさくなく、職務もまだゆったりとしていて、よい図工部の先輩がいていろいろと研究や精神的なものの支えとなったり、子どもも陰湿ないじめなども少なかったからではないかと、今にして思うのでであった。(いつ頃からこんな風潮が急激に強化されたかと考えると、ちょうど「小泉政権」辺りの、「新自由主義」の風潮が強くなった辺りから推察されます。新自由主義は、個人の競争を肯定し、自由競争(弱肉強食)を是認する政策なので。ホームレスが増えたのもこの頃からです)
現在、都図研でもたくさんの新人の先生にお目にかかるが、ぼくからみると、たいへんやる気もあり、能力も高いと思います。こうした若い先生方の潜在能力を引き出し、子どもと向き合えるような、環境・体制が整わないと、教育そのものの体制が、その基盤からくずれていってしまうのではないかと危惧します。
全国の若い先生、ひとりで責任を背負わないで、どこかに「風穴」の回路をみつけて、がんばってほしいと思います。どこかに「仲間」をみつけて、話し合える場をみつけてください。
○今日は、CCAAで「ワークショップ」がある。「A(柴﨑・中村)絵の具,B(鈴石・辻)版,C(庖刀・南)糸・布,D(高村・辰野)針金・番線,E(時任・横内)紙」などの実技研修を行います。遊びがてらご参加ください。
「組織検討委員会and校内展覧会まであと2週間」・・・2010/1/8(金)
「皆さんが集まる時間に日没がみえた。とても美しい夕焼けの風景に皆さんびっくりしていた」○昨日は、青柳小学校で4時から「組織検討委員会」の最終の会合があり、H21年度の「第一次報告」の検討をおこなった。今年度は、現状を調べるということで「アンケート」をお願いした。約800名近くの学校の回答をいただいた。ありがとうございました。
例えば、「経験年数10年以下の若い先生」が「41パーセント」を占める数値が現われた。現在、教師の人員変動が実証された感じである。今年度は、このアンケートをもとに現状を認識し、来年度、今後の都図研の組織の在り方への「提言」(第2次報告)をつくる予定である。
委員の皆様には、お忙しい中、お集まりいただき、また、煩雑なアンケートなども実施していただき、誠にありがとうございました。3月の理事会での報告とともに、「平成21年度都図研活動報告書」に内容を掲載しますので、ご覧ください。
「協議の様子。いろいろな前向きな意見を出していただき、ありがとうございました」
○ぼくは今日から出勤したが、あわただしく1日が過ぎた。月予定をみると、なんと再来週は展覧会がある。正月ボケを是正し、準備しないとヤバイです!でも、コルセットのせいで、全身の「筋力」が落ちているようで、なんか、ピリッとしません。
「MRIは苦手・顔が逆さ?・登山家栗城史多(くりきのぶかず)」・・・2010/1/7(木)
○4日に「MRI」の検査をした。人体を輪切りに撮影する機械である。しかし、これがなんともいやな感じである。30分ぐらいかかるのだが、体が動かないように拘束され、なべのふたのようなものを全身にかぶせ撮影する。「閉所恐怖症」の人は注意が必要であるというのをうなずける機械である。じーっと、暗い中に身動きひとうできない状況は、かなりぼくには、耐えがたい感じで、途中で大声を出したくなる。機械のカシャカシャという反復する音が延々と続く。でもこの音さえなかったらもっと苦しいにちがいない。この結果を受けて、次の診察があるが、思ったよりもなかなか背中の痛さが抜けない。コルセットはまだとれないかな?早く取りたいのですが…
○母親が「デイ・ケア」の施設で、「だるま」(写真)をつくってきた。よくみると顔が逆さまだ(笑い)。一週間に一度でかけるが、風呂も入れてくれ、カラオケもある。こうした図工のメニューもあるようだ。こういう施設では、図工の作業もしているようだが、「教材」はどんなふうに設定されているのでしょうか。こうした「老人と図工のプログラム」をつくるひとたちが、いるのでしょうか?
○ぼくは「山男」ではない。どちらかというと、苦しいのは苦手な方である。現在は歩くのもやっとである。
4日のNHKの番組で偶然、登山家栗城 史多さんの番組「7サミット 極限への挑戦」をやっていたのをみた。思わずうなったのは、登山という活動の「身体性」の強さである。というか…登山は、自分が、身体そのものと化す活動であった。またさらに、栗城さんは、常に「撮影」をおこない、ネットでそれを配信していたのであった。
また経歴も、東京に上京するも目的もなく、ニート生活をしていた若者が、帰郷し、たった2年の日本の
みの登山歴で、冒険家、植村直巳さんが亡くなったマッキンリーに2004年22歳で、単独登頂を果たしてしまうというような常識はずれの活動で、現在の道にすすんでいる登山家である。
現在ブレイク中のただなかにある栗城さんだが、そこには、ネット社会を意識した身体性の強さに裏打ちされた活動の魅力があるように思えた。
NHKの番組も緊張感があった。エベレスト登山で、「キャンプ2」から「キャンプ3」へ移動途中、疲労で、断念し下山する臨場感は、生死と紙一重の緊張感があった。また、ベースキャンプとのやりとりもよかった。「人間、ひとりでは、何事も成し遂げられるものではない」ということが実感される。
以下は、HPのダイジェストからの抜き出しです。
エベレスト アタックダイジェスト 〜その6〜
http://kurikiyama.fc.yahoo.co.jp/8/423/
アタックダイジェスト 〜その7〜
「初詣」・・・2010/1/6(水)
「輪を何回かくぐると、ご利益があるそうです」○今年2回目の外出。散歩に行きました。まだ、神社に行っていなかったので、近くの「天祖神社」にでかけました。初詣は、正月の「慣習」となっていて、日本人なら多くの人はでかけるのではないでしょうか。
ところで、日本人の宗教観は、不思議なところがあります。1988年の文化庁のまとめによると「神道系1億1,179万人、仏教系9,311万人、キリスト教系142万人、諸教1,138万人で、合計すると信者総数は、2億1,770万人である。この数字は、総人口が1億2,200万人の時の数字であるから、宗教人口は実際の人口の約1.8倍になる。」(幸日出夫他著『宗教の歴史』創元社、1990、P4)そうです。
実際の人口の総数よりも、届け出の信者数のほうが多いのだから、びっくりしますね。どうなってるの?という感じです。けれども、これは、日本人の宗教観の特質らしく「シンクレティズム(重層信仰)」と呼ばれているそうです。
そう言えば、写真のように、我が家にも「神棚」あり、「仏壇」もありますね〜(笑い)。初詣や結婚式、祈願は、神道で、葬式は、仏教という具合です。これらは、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教など、他の諸外国では見られない現象だそうです。また、「無宗教」と称する人も多いそうですが、それは「特定の宗教は信じていないが、宗教的なものは信じているというのが正しい」のだそうです。(同書P8)
「我が家にも、神棚もあるし、仏壇もある。よく考えれば???」ところで、外国旅行の入国ビザに、つい日本の日常的な感覚で「無宗教」「無神論論者」と書いてしまう場合があるらしいのですが、(信念を持って記入する場合は別であるが、特定の宗教は信じていないが、宗教的なものは信じている場合は余計な誤解を招かない方がよいので)「外国人に対しては「無宗教」「無神論者」という言葉は気軽に使うべきではない。外国においては、「無宗教」「無神論者」という言葉は、有神論を踏まえた強い否定語であり、宗教戦争、イデオロギー闘争の結果の強い言葉である。日本人が日本語で「無宗教」「無神論者」と聞くのと、外国人が同じ意味の「no religion」「atheist」と聞くのでは、そのひびきがまったく異なり強い否定となり、ある人々には危険人物であるとすらひびく言葉であることを知っておく必要がある」(同書P10)そうです。こうしたことは、日本のなかに埋もれているとわからないのですが、基本的な概念に対する考え方のちがいがあるようです。皆さんも外国旅行に行った際は気をつけてください。
○広報局の麻先生や組織検討委員会の菅野先生から、続けてメールきました。とたん「はじまった」という実感がして、なんだか緊張してしまいました。すでにもう勤務して仕事に励んでいる方もたくさんいるのでしょうね。さて、今日は昨日に続けて「HIS」の『日本の人』を聞き、神経をゆるめながらお別れしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=2NBBzX3m3yI&NR=1
「CCAA「木水育男」展など」・・・2010/1/5(火)
○昨日は、CCAAにいくと、せっせと絵を台紙に貼っているひとがいた。加藤真さん(北区稲田小学校)と鈴石先生だ。15日からの「木水育夫」展の準備である。加藤真さんは、郷里から帰京した日に手伝いに呼ばれたらしい。こういうボランティアな仕事を進んでしてくれるのだからありがたい。加藤さんは、現在伸び盛りの若手である。先日の「城北大会」でも北区の授業を受け持っていた。こうした地味な仕事が、目に見えない力を蓄積していくのです。ホントです!


○創造主義美術教育黎明期の実践「木水育男が指導した子どもの絵」展
会期 |
1010年1月15日(金)~25日(月)10:00~18:00/21日(木)休廊
|
|---|---|
会場 |
CCAAアートプラザ ランプ坂ギャラリー
|
入場料 |
200円(中学生以下無料)
|
シンポジウム |
「創美運動の黎明」/1月24日(日)14:00~19:00
パネリ スト
国定秀行(元福井・武生市 立第三中学校美術教諭)、朝倉俊輔(福井県立敦賀高等学校美術教諭)、鈴石 弘之(CCAA理事長) |
○ドイツの加藤貴子さんから、「年賀」が配信された。下記のような写真とコメントが付いていました。さすが、前向きですね。今年も、がんばってください。
「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」
"Learn from yesterday, live for today, hope for tomorrow. The important thing is not to stop questioning." Albert Einstein (アルベルト・アインシュタイン)
○いよいよ学校もはじまりますね。年のはじめ、少し暗い話を書いてしまったのですが、今日は、「HIS」の『SIAWASE HAPPY』を聞きながらお別れしましょう。故キヨシローくんも元気に明るく歌っています。
http://www.youtube.com/watch?v=PT1WwTSNxrk&feature=related
「ウィキペディアとユーチューブ」・・・2010/1/4(月)
○3日はよく寝た。というか、一日中眠ってしまった。今年になってまだ外出していません。HP担当の菅原さんも、「網走」で、飲んだくれながらも(笑い)原稿をアップしてくれています。ほんとうに便利な時代になりました。
ですから、この狭い部屋にいても、いろいろな「情報」が、その気になりさえすれば、手に入れることができます。「ウィキペディア」と「ユーチューブ」があるからです。
そこでは、かつてのように「知識」「情報」は、限られた一部のひとの特権ではなく、開かれたものとなりました。2000年代に入って、すっかり情報環境というものが変容してしまったようです。
例えば、日本における「美術」という概念の成立について、知りたければ、下記のアドレスにアクセスすれば、京都精華大学の佐藤守弘さんの「芸術学」の授業さえみることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=abSRd_P-kTs&feature=channel
一方、こうした「ネット社会」に対して、3日の「朝日新聞」で、写真家の藤原新也さんは、「2010年代 どんな時代」というインタビューの中で、ネット社会にともなった「監視社会」と、監視社会の強化にともない、人々のなかに「空気読み」といった心性が強まったと指摘しています。(「朝日新聞」2010、1、3版)。さらに「ネット社会が臨界点に達したときに、ゆり戻しが来るのではないかと期待している」と述べています。
図工という活動における情報は、より直接的で、身体性をともなった情報です。質感や肌触り、匂い…などは、こうした情報メディアでは、経験できぬ類のものでありましょう。また、実在する人間は、その実在性によって、機械的なコミュニケーションの対象に還元できない「不透明な厚み」をもつ存在です。
2010年代は、ウィキペディアに代表されるような情報と、より直接的で根源的な情報をうまく活用すべき時代になりそうです。
◆ウィキペディア Wikipedia
米国フロリダ州に本拠を置くウィキメディア財団が運営するインターネット上の百科事典。URL=http://www.wikipedia.org/。名称はソフトウェアのWikiと百科事典をあらわすencyclopediaを組みあわせた造語である。2001年5月に英語版の運営が開始されたのを皮切りに、2007年6月時点で250ヵ国語以上の版が運営されており、ドイツ語版、フランス語版、スペイン語版なども多くのアクセスを集めている。コピーレフトやオープンコンテンツの理念のもと、だれでも執筆や編集に参加できる形式で運営されているため、既存の百科事典と比べて、最新情報の追加や誤りの訂正などの更新が迅速な半面、すべての原稿が無署名である。そのため、名誉毀損、著作権違反、個人情報流出等の問題が生じた際に責任の所在が不明瞭であるほか、定説の確立されていない項目に関してはしばしば意見が対立する者同士の編集合戦に発展して、結局情報の更新ができなくなってしまう弊害も指摘されている。なお日本語版ウィキペディアは2001年5月に運営が開始され、2008年4月時点で48万項目を超え、非欧米語圏では最大の規模を誇る。他国語版に比べ、サブカルチャー関連の記事が多く、内容も詳細なのが特徴である。
(http://plaza.bunka.go.jp/museum/keywords/2000/より)
◆ユーチューブ YouTube
米国カリフォルニア州に本拠を置くYouTube LLCが運営する世界最大の動画共有サイト。URL=http://www.youtube.com/。2005年2月、チャド・ハーリー、スティーブ・チェン、ジョード・カリムらが共同で会社を設立し、同年12月にサービスを開始した。原則として会員登録は不要で、容量100MB 、長さ10分までの動画ならだれでも無料でアップロードし、また閲覧することができるほか、多くのチャンネルやコミュニティから好みのサイトを選択する機能も設けられている。動画に用いられるプラグインは、映像はFlashVideo、音声はMP3など。アップロードされている動画はすでに億単位に達しているとみられるが、その多くは著作権や肖像権を侵害している違法動画であり、対策の必要が叫ばれている。ただ最近では、提携を結ぶ企業があらわれるなど、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に違反をただすだけではなく、YouTubeの宣伝効果に着目して共存の可能性を探る動きもあらわれてきた。2007年6月には日本語URL=http://jp.youtube.com/が開設され、それと前後して「ようつべ」というネットスラングが出現するようになった。また現在ではVeoh、Youku、ニコニコ動画など、各国で独自の特徴を備えた動画共有サイトもあらわれはじめている。
「老い」・・・2010/1/3(日)
ぼくの母親は、「透析」に週三回行く。それは、正月だからといって、休めるものではない。支度をし、病院のクルマを待つのであるが、老いをもともなう、なかなかの苦行である。
このところ取り上げている渡邊二郎さんの本の「老い」の章では、「自己と老い」について次のようなことが述べられていた。
自己のうちには、変わることのない、一貫した、同一の自己が住んでいる。そのものの鏡に照らして、初めて、移りゆき、変遷する自然的かつ社会的な自己の諸相が、いろいろと映じ、見えてくるのである。その自己の、自然的かつ社会的な諸相としての一つが、老いである。(渡邊二郎著『自己をみつめる』放送大学、左右社、2009、P256)
そこには、変容していく生物としてのまた社会的な存在としての自己を、「対象」としてみつめる、「根源的な自己」がそこに存在する。根源的な自己は、すべてを統一する十全な、不動の目である。しかしながら…渡邊さんは、次のようにも述べている。
さりとはいえ、その根源的な自己は、万物を映し出す鏡でありながらも、けっして、どこにも所在しない、宙に浮いたものではなく、実は、人間の特定の自然的かつ社会的なあり方のなかに、受肉し、宿り、住まい、繋留(「けいりゅう)とどまること)されているのである。そのように、いわば超越論的な眼差しが、特定の自己のなかに特殊化され、個別化されて、心身の具体化のなかに繋縛(「けいばく」つなぎしばること、また、そのもの)されているというところに、人間の宿命がある。そこに人間の不可避の構造がある。(渡邊二郎著『自己をみつめる』放送大学、左右社、2009、P258)
「根源的自己」「超越論的な眼差し」というと、何か、確固とした実在のように聞こえるが、「老い」は、「もの忘れ」「ぼけ」「痴呆」…といった方略で、これらを侵食していく。老人が、動物の表情に似てきたり、幼児のようになったりしていくのは、「自他(主客)といった構図」が未分化の世界(幼児や動物の世界)へ回帰していくからであろうか?
「ジョゼと虎と魚たち」・・・2010/1/2(土)
○映画『ジョゼと虎と魚たち』(監督犬童一心 、原作田辺聖子、脚本渡辺あや、2003)をみた。
「いつかあなたは、あの男を愛さなくなるだろう」
とベルナールは静かに言った。
そして、いつかぼくもまたあなたを愛さなくなるだろう。
われわれは、またもや孤独になる。
それでも同じことなのだ。
そこにまた流れ去った一年の月日があるだけなのだ。
「ええ、わかっているわ」とジョゼが言った。
上のセリフは、おそらくF・サガンの小説の中にでてくることばであろう。
この映画は、青春映画である。が、テーマは「流れ去った一年の月日」すなわち、人生という経験そのものである。
サガンの小説『悲しみよ こんにちは』は、手にしたことがあるが、読破できなかった記憶がある。高校生のぼくには、フランス流のおしゃれな恋愛気分になじめなかったという印象が残っている。が、それは、ぼくが未成熟であったことが原因であろう。
原作の芥川賞作家、田辺聖子さんは、1928年生まれ…この映画は2003年制作だが、原作は1984年…現在は82歳だが、田辺が56歳の時の作品である。(田辺さんは、流行作家で、よくTVなどに出演していて顔をよく見かけたが、こちらもサガンと同様にその作品を読んだことがない。)
56歳と言えば、それは、今年のぼくの年齢であり、「人生」や「時間」の流れに自覚的になった時期に書かれた小説であると言えるであろう。
それから、サガンは、自分の「人生観」について次のように述べているという。
わたしは孤独が好きです、でも他人には愛を感じていますし、好きな人にはとても興味を持っています。ですから、人生の小さなドラマに対して、自分を嘲弄(ちょうろう)して、ユーモアをたっぷり持つことが必要だと思うのです。それでユーモアを持つための第一段階は自分自身を嘲笑うことだと思います。(対談集『愛と同じくらい孤独』新潮文庫版、 訳朝吹由紀子)
「孤独」「ユーモア」「恋愛」「嘲弄」とは、田辺さんの人生観でもあったかもしれない。
この映画は、「大阪弁」や「料理」「うまそうに食う姿」「障害で歩けない女性が主人公」「貧しい下町の生活」「施設での生い立ち」「SEXの仕草」…など、仔細で具体的な映像が気になるものである。
また、日常からも少し異化されたスチエーションもみるものの興味を喚起させるのである。が…むしろ、「細部」そのものを楽しむものなのだろう。なぜなら、その細部には、「流れ去った一年の月日」すなわち、人生という経験そのものが宿っているから。
昨日述べた渡邊二郎さんは、同書のなかで、人生における「経験」の意味について次のように述べている。
誰にとっても、自己の人生とは、そうした過去の経験の追憶を反芻(はんすう)し、暖め直すことを措いては、事実上どこにも存在しないことを、私たちはよく心得ているからである。私たちの自己自身とは、誰にも言えない、無限に豊かな、汲み尽くすことのできない、そうした秘められた大切な経験の思い出の蓄積、それらの追憶で充溢した桃源郷の全体である。自己の人生とは、公共の言語空間には、載せられない、私秘的な、恥ずかしくも、また切ない、数々の秘め事を沈殿させた、諸経験の連続する全体である。(渡邊二郎著『自己をみつめる』放送大学、左右者、2009、P13〜14)
映画や小説や音楽などのARTは、こうした「誰にも言えない、無限に豊かな、汲み尽くすことのできない、そうした秘められた大切な経験」を他者に直覚的に経験させる唯一の領域なのではないだろうか。
この映画を一言で言うなら「大阪弁のF・サガン」…あるいは「恋愛(時間)は、誰にも平等で、その細部に宿る」…なんてことが言えるかもしれない、かな?
(ああ!ここまで書いて…「アホかいな。あんさん、そんなことも知らんかったんかいな!」と大阪弁で女の声が聞こえてきた)
映画の音楽は、「くるり」の『ハイウェイ』。このたんたんとしたリズム・感じに「孤独」が込められていますね。今日は、『ハイウェイ』を聞きながらのお別れです。
http://www.youtube.com/watch?v=H0jXfEx0hq4
「『自己を見つめる』アンド『朝のリレー』」・・・2010/1/1(金)
2010年が到来しました。
09年は、自分自身の問題(ぼくは怪我でしたが、母親もかなり年老いてきました…)をふくめて「生老病死」の問題やひとが生きていく「時間」の流れに気づかされた年でした。(身体的な人間存在は、極めて脆弱で、はかないものであることを実感したのでした。)
そして、ぼくたちは、職業柄、子どもを対象に仕事をしています。実はあらためて考えてみれば、「子ども」こそは、最も時間的な存在と言えるのではないでしょうか。
ぼくたちは、「図工」というものを介して、子どもとかかわっていますが、現在の社会的な言説は、かなりの効用性の強いものです。そこに「違和」を感じているのは、ぼくだけでしょうか?
教育の公共的な言説の、基層に、「生きる」という事実があると思います。このことを見逃してはならないでしょう。
年末に久しぶりに神保町の書店を歩いていて、本を買いました。実は「腰巻」のキャッチコピーに惹かれたのでした。「崩れ落ちそうになる気持ちを引き締めてくれる哲学の名著」。「崩れ落ちそうになる気持ち」とは、現在の誰もが抱えている不安な気持ちでしょう。
著者の渡邊二郎さんは、ドイツ哲学の碩学で、08年に逝去されています。
「時間」の章に次のようなことが書かれてありました。
「世界経験の原点は、他でもない、いまここに生きている、ひとごとならぬ、第一人称の私自身にある。このかけがえのない自己自身の生存の努力と、その有意義性の樹立に向けた格闘のなかでのみ、過去も将来も現在もはじめて意味をもつ。公共的客体的な世界の時間と歴史も、それが、自己自身という生きる主体との関わりの中で、その意味と有意義性において読み解かれ、査定され、批判され、断罪され、継承され、発展させられるのでなければ、何の意味ももたず、たんなる空疎な図式になりさがるであろう。それらが生き生きと甦ってくるのは、ほかならぬ、かけがえのない自己自身の生存の意味に向けた努力のうちにおいてのみなのである。」
(渡邊二郎著『自己をみつめる』放送大学、左右社、2009、P49)
つまり、ひとそれぞれが、かけがえのない人生を意味づけながら生きてこそ、世界もはじめて息づいていくものなのですね。
そして、ぼくは、こうした努力をおこなうためには、「他者」も、ものすごく大切だと思います。ぼくは、確かに「あなた」によって勇気づけられ、意味づけられているからです。
元旦なので、少し、固い話になってしまいました。「酔い」がさめてしまうかな?(笑い)
本年もよろしくお願いいたします。
○さて、今日は元旦でもあります。都図研がたいへんお世話になっている谷川俊太郎さんの詩『朝のリレー』聞きながら、お別れしましょう。
音楽は、谷川賢作さんです。個々のひとの生きることが、壮大な空間と時間のうちに立ちあがってくる詩ですね。2バージョンみつけました。あなたは、どっちがすきかな?
http://www.youtube.com/watch?v=zdamOuoDuDc&feature=PlayList&p=59E1B0FC4CC8622F&index=49
http://www.youtube.com/watch?v=2GYBc1X8SU8&NR=1











