vol.17 〜はみだす〜
はみだす子どもの魅力
Written by 玉置 一仁
キーワード
子どもVS教師、シミュレーション、密かな抵抗、独立、図工で育まれる個性、生きる力、ひらめきや苦労、 想定した領域、はみだし
■子どもは言うことをきかない
教師になって5年目の時、私は中学校の美術を教えていて、1年生の学級担任をしていました。その頃は、一時期広がった校内暴力も下火になり、学校内が少しずつ落ち着きを取り戻しつつある時期でした。ちょうどその時に、同じ学年に異動してきたK先生が言った言葉は、私にとって子どもの見方を変えるきっかけとなりました。
当時勤務していた中学校は、「子どもたちが荒れないためには、どうやって事前に対策を立てていくか」というような危機管理中心の雰囲気で、学年会の話題は、「子どもにコレを許すと荒れる」とか「アレは荒れる前兆だから止めさせよう」などと言った生徒管理のためのものばかりでした。
校内暴力全盛期、新聞を賑わせた象徴的な事件が起きた地域でもあったので、こうなるのは当然のことではありましたが、教師側に少し過敏なところがあったことは否めません。
ところが、K先生は、「子どものことを第一に考えようよ」と提案し、さらに「まず初めに、子どもは大人の言うことなどは聞かないものだ、という認識でいこう。初めから大人の言うことをよく聞く子どもなんて、かえって変だよ。」と付け加えたのです。これは私には衝撃的な発言であり、「子どもVS教師」というような構図が焼き付き始めた私の教育観が崩れ去る瞬間でもありました。
■子どもの密かな抵抗
題材を考えていくとき、私たちは子どものことをアレコレと考えて、子どもに起き得る様々な場面を想像しながら、どんな環境か、とか、素材は、とか緻密な準備を想定し、さらに自分が想像できるギリギリのところまで授業中の子どもの動きや感覚や表現をシミュレーションしながら授業を組み立てていきます。
これは図工に限ったことだけではなく、どの教科でも、どの単元でも日常的に行われている授業の大切な準備です。多くの教師は、その想定内で子どもの活動が行われ、突発的な事件や破綻が無く、スムースに授業が進むと、とりあえずはホッとして、精神的なプレッシャーも少なくて気持ちよく授業を終わることができます。正直私もそうです。しかし、実のところはどうなのでしょうか?
子どもたちの活動を注意深く観察していると、授業中、子どもたちは、教師の指示に対する様々な抵抗やはみだしをみせているのがわかります。
私は、その様子をみて、「ちがうよなー…」「おっと、そうきたかぁ…」「うわぁ、それやっちゃったの!」とか、裏切られたり、ビックリさせられたりの連続です。題材が提案されて活動が始まったら、その瞬間から子どもは精神的にはすっかり独立してしまっていて、自分と自分の表現のことしか考えていないようなのです。そこには教師が入り込めない子ども自身の世界があります。
教師の思惑通り進んでいるというのは、ただの幻想であって、本当のところは、子どもたちの「密かな抵抗」を教師が気づいていないだけなのでしょう。
子どもたちは初めからはみ出しているのではないかと最近は特に感じています。そして、そこには「子どもの抵抗」を期待し、魅力を感じている自分がいます。
■はみだす子どもたち
この密かな抵抗こそ図工で育まれる個性であり、生きる力なのではないかと感じています。
それは、子ども自身が授業の中でみせる瞬間的なひらめきや苦労の末に見つけた活路です。やがては、この抵抗から生まれた表現は、教師が想定した領域をはるかに凌駕していき、大人がイメージすらできない世界を紡ぎ出していくことにつながっていくと思えるのです。
「子どもは大人の言うことなど聞かないものだ」というK先生の言ったこの言葉を、あえて今、図工流に言い換えてみると、「子どもは、はみだしながら表現していく」という感じになるでしょう。
私は、しっかりと授業をシュミレーションし、組み立てつつも、子どもたちの密かな抵抗を期待し、それらを見守りながら、子どもたちと向き合っていきたいと思います。
vol.16 〜経営〜
図工を経営する
Written by 本間 基史
キーワード
子どもの動き 周囲に伝える 共通事項 自分のイメージ 自分の感覚 連携 授業 幸せな時間
私のいる区の図工部会でのことです。この4月から採用になった図工専科の方がこんなことを言っていました。
「子どもが図工の時間に楽しく絵を描いたり、ものをつくったりしている姿を見ていると、本当に教員になってよかったと思います。幸せな時間です。」
彼の専門は社会であり、美術を特に学んできたわけではありませんが、区の部会では熱心に学ぼうとする姿が見られます。
若い方々が都図研でも増えてきました。校内に一人しかいない図工専科がどのように教科を経営していくか考えたいと思います。
専科として、担任と連絡を密にとることは大切です。持ち物の連絡、図工の時間の子どもたちの様子だけではなく、題材のねらいや、子どもの表現の中で良かったことや、すばらしい点を具体的に伝えたいものです。
まず、校内で担任や管理職に図工という教科の大切さを日頃の校内展示や、子どもの姿を伝えることで示していかなければなりません。もちろん保護者の方々にも、校内展や保護者会などの機会をとらえ
「Aさんは色のセンスがすばらしいですね。」とか「Bくんは、図工の時間ダイナミックな表現で、積極的に取り組んでいますよ。」などと伝えていきましょう。
子どもしか表現のできない、ピュアなものより、早く大人の表現に近づけたい(遠近法を教え込んだり、印象派の混色を強要したりするような指導法・・・)と考えている方には学習指導要領をもとに誤解を解かなければいけません。
今回の学習指導要領では、「自分のイメージ」や「自分の感覚」ということが明確に出ています。主体は子どもですよ。指導者のイメージを子どもに代弁させるのではありませんよ。How To の方式で授業を組み立ててはいけませんよ。といったことを〔共通事項〕でも示しています。
低学年では
- ア 自分の感覚や活動を通して、形や色などをとらえること。
- イ 形や色などを基に、自分のイメージをもつこと
となっています。
また、鑑賞の指導では美術館との連携を図ったり、地域の方をゲストティーチャーに招いたり、図工教育を外部の方と一緒に行えるよう、プロデュースしていくことが求められます。
もちろん、一番大切なのは図工の経営において、どのように子どもと向き合うかということです。校務分掌の多さや事務的な仕事の多忙さに負けずに、授業を通して、子どもと一緒に過ごす図工の幸せな時間を楽しみたいものです。
vol.15 〜動き出すとき〜
子どもが動き出すとき
Written by 柴田 祐佳
キーワード
子どもの動き 空気 つながり 切り込み 発達段階 成果 効率 違和感 子どもをよくみる 子ども自身の持ち物
■4月は、子どもとの間に、ある種の緊張感と距離感があります。それを心地よく感じて彼らと向かい合っているころ、原稿依頼がきました。
お題は「子どもが動き出すとき」。自分なりに考えたく、締め切り間際まで「お題」を頭の片隅において、子ども達との生活や授業を重ねました。
ここでは、子どもが、活動を始めるときの教師の「投げかけ」や「題材」について綴ることが求められているのでしょう。
けれども、私は子どもの活動は、こうした方法論によって単純に、飛躍的に「動き出す」というよりも、それ以前に子どもを取り囲むあらゆるもののつながりの中にあると思います。そして、「子どもはいつもゆるりと、でも敏感に動いている」のではないかと考えています。
私たち図工専科は、こうしたあらゆるものとのつながりの中で子どもが常に動き、感じているゆるりとした空気に、形や色、材料などの造形的要素によって「切り込み」をいれることを役目にしていると考えます。
子どもは、その「切り込み」に驚いたり、共感したり、違和を感じたりしながら、自分なりに形や色、材料などを介した造形表現を通して、つなげあわせながら、これまで出会わなかった新しい世界をつくりだし、体験しているのです。私はそれが「図工の時間」に子ども達の中に起こることを願って題材を考え、子どもと向き合っています。
■昨年度一年間、東京都教職員研究生となり学校から離れて、「東京都教職員研究センター」で研修する機会を得ました。
研修内容は、
- 担当指導主事につき各研究生の専門教科について個人研究。
- 人権教育や特別支援教育、小学校英語活動など現在の教育課題とされているものについてグループ研究。
- その他、教職員対象の各研修会の運営業務や企業派遣研修
などがありました。
そこで、まず感じたのは、昨今言われ続けている図画工作科の置かれている厳しい現状でした。図工専科出身の指導主事は寡少です。
昨年度は都区市の全指導主事約435名のうち図画工作科担当の指導主事は2名。そのため、先ほど挙げた研究生研修内容の一つ、「個人の教科研究」において、私の主担当として指導してくださった指導主事の担当教科は、図画工作科ではなく特別活動が専門の方でした。
そのため図画工作科の目標や内容について、学習指導要領を広げて話すところからスタートしました。そうした中で、現状や図工のことを少しでも他教科の先生に伝えていくことが図工専科制度のおかれた東京都の教育の場でいかに大切であるかを痛感しました。
また、月1回、指導主事・他校種多教科にわたる研究生でつくられた分科会の報告の場がありました。当たり前のように私は、子どもの作品や活動の画像を示しながら、「図画工作科は、子どもが形や色、材料などに自らかかわりながら新たなことを見つけたり、表し方を試したりする場です。そのような場をつくりだす子どもと教師と学習環境の関係について考えたい」と話してみたところ、「思いが強く、抽象的。子どもには指導の結果として、どのような力がつくのか、何ができるようになるのか。具体的にわかりやすく示してください。」と指摘されました。
一般に「学校教育」という制度の中では、教育や指導の価値は「発達の階段を着実に昇る」ことであり、成果や効率性といったものが重要であるということ、つまり、「各学年に合わせて、〜ができるようになること」が教育において目標である、という考えが支配的であることが認識されました。けれども一方で、私は、「発達の階段を昇る」だけでは、収まりきらないもの、言葉や形にあらわれないものもあるのではないかという違和感をもち続け、毎回実践や子どもの姿を通して報告を続けました。
その結果、私にとって考えて続けていくべき課題を未解決のまま、研究生を終えることになりました。
■お二人の担任の先生方が子どもの「学力」について話をしていました。「〜ができないんです、どうしたらいいでしょうか」という声が聞こえてきました。そして、突然、「Zさんの絵って何歳くらいの段階の絵かしら・・・」と話を振られました。「そんな風に段階で考えたことはありません。あの子の絵にはいつもあの子にしかできないものが重なっていて私はすごいと思っています。」と応えていました。その先生の言葉には、前述の「発達階段」が教育的価値の中心にあり、「4年生のZさんは4年生が到達すべき絵というものに到達していない」という言葉が隠れていると感じました。
けれども、Zさんの授業での活動をよくみていると、ちがった側面がみえてきます。Zさんは、画用紙や教師が提示した材料にふれるまでに時間をかけます。その時間、図工室を散策するような眼をしています。Zさんはじっとしていますが、こころは動いているのです。間もなくすると、自分だけが使う材料を探しだし「これもつかっていい?」と聞きに来たり、「だったら、私はおじいちゃんとおばあちゃんの家にしてもいい?」などと題材と自分の生活を結びつけて考えたりしているのです。そして、動き始めます。そこにはZさんのこころの準備、材料の選択や発想、そしてつくる活動への極めて能動的な動きがあるように思います。
彼女がつくりだす豊かで厚みのある形や色に私はいつもハッとさせられます。そして、題材がどうであったかの判断をZさんの活動の様子を通して伺い知ることができます。そこには、「発達階段論」が締め出してしまうような子どもの動きや表現の豊かさがあるのです。
「子どもが動きだすとき」。それは、どんなに私が授業を構想しても、簡単にはつかまえることのできない、それぞれの子どもたち自身の持ち物なのだと思います。
vol.14 〜はじまりと終わり〜
図工の「授業のはじまりと終わり」を考える
Written by 平田 耕介
キーワード
はじまりって何だろう? 子どもの内(なか)にあるもの 子どもはもう知っている 授業の中にあるもの 終わりはすでにはじまっている
●はじまりって何だろう?
「どんなことにもはじまりと終わりがある。」よく聞く言葉ですね。終わりより、「はじまり」の方が何となく気分がよいので、まずは「はじまり」について考えてみます。人生のはじまり、1年や1日のはじまり、一人暮らしや結婚生活のはじまり、旅のはじまりなど…あらゆる「はじまり」があります。人生のはじまりには、その命を授けてくれた両親の人生がすでに存在しています。元旦前日には、大晦日があり、夜が明けて1日がはじまります。一人暮らしをはじめるには、決意や準備をしますね。そして、結婚となれば、更なる決意が必要かもしれません?! 旅には計画的、自由気ままなど、いろいろなケースがありますが、出発前の高揚した気分は、すでに旅がはじまっているかのようです。
こうしてみると全ての「はじまり」には、そこに繋がる「更なるはじまり」があるようです。ならば授業の「はじまり」にもきっと「更なるはじまり」があるはずです。
●子どもの内(なか)にあるもの
2月の朝、校庭の水たまりが凍っていました。登校時に楽しそうに滑り具合を確かめる子どもたちがいました。3年生との給食の時間では、「戦争って何故するの?」「ワニってどうやって寝ているの?」「先生には何でヒゲがあるの?」と次々に質問攻めにあいます。
担任がお休みした1年生とのある補教授業では、子どもたちは課題のプリントを済ませてしまうと、どうも落ち着かなくなります。そこで「自由帳に絵を描いていいよ。」と一言いうと、「やった!」と歓喜の声をあげます。不思議な形、動物、女の子、怪獣、電車…、思い思いに絵を描いていきます。
こうした日常の子どもたちの様々な様子や行動をみていると、「子どもの内(なか)には、はかり知れない世界が広がっているのを感じます。子どもたちは、あちこちにアンテナをはって体で確かめ、聞いて、話して、考えて、描いて活動しているのです。こうした子どもの言葉やつぶやき、仕草のなかに、私は授業の「更なるはじまり」を垣間見るのです。
●子どもはもう知っている
授業がはじまる以前に、すでに子どもたちは体のどこかに図工のカケラを持っているのです。「図工の授業がはじまって絵を描く」のではなく、「絵を描く子どもたちが図工室にやって来る」それが子どもの本来の姿だと思います。そうして「更なるはじまり」にも「更なるはじまり」があるでしょう。
●授業のなかにあるもの
授業のなかで、子どもは体の内(なか)の図工のカケラといろんなカケラを繋ぎ、その瞬間ごとに色や形でひとつの実感をつくりだしていきます。図工の時間は、張り巡らせたアンテナを、何となく気持ちのよい感覚を、不確かでモヤモヤとした感覚を、あらゆる感覚を、自分の色や形に編み出していく時間なのです。
子どもはこうした活動を通して、さまざまなことやものを実感していきます。「実感」とは自分自身を知ること、それは「成長」することと同じではありませんか。そんな瞬間の重なり合いが、図工の授業のなかにあるのだと感じるのです。だから、図工の授業が子どもたちにとって大切な時間であることを確信できるのです。
●終わりはすでにはじまっている
授業の終わりが近づいてきました。「片付けるよ〜」「もっとやりたい!」「あんまりできなかった」そんな声が飛び交います。そこにある色や形は、その授業の子どもそのものです。
そんな最中に、授業で一番伝えたかったことを振り返りつつ、新たに学ぶべきことを模索している私がいます。そこには、もう次の授業の「更なるはじまり」が、そこではじまっています。
vol.13 〜新人〜
図工の「新人」について考える
Written by 庖刀 由利子
キーワード
同輩と先輩 飲み屋 出会い 子どもと図工の魅力 教師文化 マニュアルでないもの 持ち寄り研究会 校内展覧会 同僚 地域 「図工」の先輩=「子ども」の先輩
新人について考えるというお題をいただいたが、回りの新人の方は優秀な人が多く、私がいろいろ書くのもはなはだ失礼なことなので、自分のことを中心に書きたいと思う。
教師に立ちはだかる壁
私のことを思い出すと、最初に目の前に立ちはだかったのは、まず教師として認めてもらうことの難しさだった。そもそも私は中学美術からスタートしたので、図工の新人になる前は美術の新人だった。教師集団と肩を並べるために先輩教諭から『下品』と太鼓判を押されたベタベタの大阪弁をトカゲの尻尾としてささげた。
図工の新人になってからは、小学生が幼くてかわいいから、ニコニコしていたら、ばかにされたと思った子どもが泣いたのでびっくりした。
子どものもつ動物的感性—コミュニティの技
また、子どもと正しいガチンコで向き合うためには児童理解が重要。子どもには動物的な感覚があって、先生同士の話の流れで、どの先生が偉くて、どの先生が下っ端か確実に見抜いてくる。私は作戦として、偉い先生とか担任の先生と仲の良いところを子どもの前でいっぱい見せたような気がする。教員で生きていくためには、動物的なコミュニティの表現力が重要だったと記憶している。蛇の道は蛇。
新人のもつ貪欲な感性−しなやかな若さの力
とにかく貪欲で、見るものすべて考える前に試していた。新人のよいところは、無鉄砲さとか、しなやかさだろう。子どもも馬鹿にしながらも、よく付き合ってくれていた。ひょっとしたら、馬鹿にしていたのではなく教えてくれていたのかもしれない。
最近は職員室ではそれが少しなくなって安全圏の中で仕事をしている。若気の至りが懐かしい。
仕事ができない時—仕事と家庭との両立
若い時は、3人の子どもを育てるのに翻弄。カスタネットの生活(打って、休んで、打って)の毎日で、図工の授業を保育園からの電話もなく集中できることが一番の幸せだったと記憶している。仕事が思うようにできないコロがあったからこそ、今仕事を頑張っていられるのだと思う。何が幸か不幸か分からないのが世の常である。
学校のお仕事—便利屋家業(器用貧乏)
だんだん仕事に慣れてくると教師集団の中で自分の役割が固定化してきた。私の場合は看板屋や美術系の仕事(のちはパソコンのお仕事等)がいっぱい回ってきた。そういう仕事を進んですることで、先輩の先生に頼られて教師仲間として認めてもらった気がする。隠れ蓑、というか自縄自縛。
Generation gap—kind of老化現象?
若い時は年配の先生がとても苦手だった。自分だけは老いないようにしようと思ったものだ。しかし、そんな私もついにこれを感じるようになった。だれにもいつかは来るコレ!しょうがないのだと思う。むしろ、同じコトと違うコトがあるから面白い。特に今の若い先生は有能な人が多いので、置いていかれないように私も頑張っている。苦笑。
図工室と子どもと教師—本業(本音)
今でも図工室に入るとわくわくした素敵な喜びがある。図工室は、ドーパミン満載で、子どもと活動を楽しむと、どちらが教えられているのか分からなくなってくる。本当に不思議な時間である。これは今も昔も変わらない。見回りに来た管理職の先生がすぐ私を見つけられないのも同じで快感。自己満足。
図工の先生は学校の先生—役職(建前)
図工の先生になるためには、学校の先生にならなくてはいけない。つまり、子どもと周りの先生、しいては学校というシステムや環境の中で主体的にコミュニケーションをとっていかなくてはならない。それらをなんとか片付けると楽しい図工の時間に在り付けるのだが、年齢的な問題か、時代的背景の問題か、最近図工室以外の仕事が多くなってきているのが残念ながら悲しい。
図工を学び・楽しみ・伝える(因果応報)
新人の人は、いろいろな研修会でもうすっかり学んでいると思うが、図工を楽しむには教師は、まず学びが大切。困ったら図工の先生や子どもに学ぶといい。また、担任の先生や保護者が教えてくれることもある。その中で自分がコレと思ったことを頭のプラグに突き刺す。
ただ、素晴らしい実践や作品があっても、そのままのまねごとでは実践は行き詰まる。自分の考えで実践し、試行錯誤することから初めて何かが見えてくる。また、いつも答えは身の回りにあるとも思えるこの頃。なぜなら、図画工作は人の育ちの根本にある教科だから…。
教育を取り巻く状況がどんどん厳しくなるが、こんなときこそ許す限り図画工作を楽しむしかない。そして、周りのヒトにも表現の喜びをぜひ伝えてもらいたい。以前はいやだったが、「図工の先生はいいわねぇ。」は、ほめ言葉だと思うこの頃。
新人の先生方にも、この素敵な時間をぜひ一生懸命楽しんでもらいたいと所望するばかり。
vol.12 〜先輩〜
図工の「先輩」について考える
Written by 加藤貴子
キーワード
同輩と先輩 飲み屋 出会い 子どもと図工の魅力 教師文化 マニュアルでないもの
持ち寄り研究会 校内展覧会 同僚 地域 「図工」の先輩=「子ども」の先輩
私は、2002年に足立区で図工専科として採用されました。同区で図工専科7名の採用があり、その頃はまだ、今ほどに大量新規採用がなかったので、珍しがられ、そして沢山の「先輩」から可愛がってもらいました。
図工の「先輩」となると、まず初めに辻会長との出会いが思い返されます。五月の最初の図工部会、区小研が何だかわからぬまま参加しました。同年に板橋区から異動されていらっしゃったばかりの辻先生の近くにたまたま座っていた私と同期の子でお喋りをしました。後に、新規採用研修の一つで、辻先生の授業を拝見する機会がありました。
図工も学校も小学生もなにがなんだかわからない頃に目にした先生のお授業は、なんとも柔らかくふんわりとした温かい時間でした。「すごい人がいるもんだ」と思ったと同時に、図工ってなんなのだろうか?と混乱し始めたのでした。それから、「児童作品持ち寄り研究会」にお誘い頂いたり、子どもたちの作品をみせていただいたりと、「一年ももたないだろうなぁ」と教師生活をスタートさせた私は、図工や子どもの魅力にはまってしまいました。
それから三年ほどたった頃、辻先生が『子ども主義宣言』の計画を立ち上げ、編集長高橋香苗先生のもと、編集部の一人としてご一緒にお仕事することになりました。香苗先生は非常に情熱的で魅力的な女性で、実践を通しての独特な子ども観、きりっと的の得たお話や、筋道をたてて説明をしてくださるお姿、掲げるときりがないのですが、私にとって永遠の憧れの先生です。
様々な過程と難関を乗り越え、今年出版された『子ども主義宣言』。最初のプロジェクトは3人の都図研大御所にインタビューする「先輩に聞く」シリーズでした。編集部のそれぞれが興味ひかれる方の担当になり、私はチャンス!とばかりに、鈴石弘之先生のインタビューを買って出ました。その内容は本の中にある通り鈴石先生の核ともいえる深くて熱い内容でした。図工の世界をかじり始めたばかりの私にとって非常に刺激的なお話ばかりで、それまでの価値観がガラガラと崩れ、新たな世界観を突きつけられました。
「一番大事なのは、子ども」、「子どもは、私の中に住んでいる。その私の中の子どもと、子どもとがつきあっている」、「子どもは希望だ」、子どもの「自立」を目指す(注1)等々、鈴石先生独特の一貫した子ども主義の姿勢。そして、その原点ともなった野々目桂三先生とのエピソードは、今回のテーマ<図工の「先輩」について考える>際に、真っ先に思い出されました。かの鈴石先生でさえも、ご自身の図工の情熱をかたちづくったきっかけについて、偉大な先輩たちとの「出会い」であったと語られたことは、私には驚きでした。そのインタビューの余談の中で、辻会長と石井弘先生との出会いや、かつての都図研のそうそうたる面々のエピソードなどが語られました。図工の教師文化には、題材やそのノウハウの伝承、はたまたマニュアルなどは無意味であり、むしろお酒の杯を交わしながらわいわいがやがやと論議をしているなかで、いろいろなノウハウを自ら学んでいくものだ・・・と。幸運なことに私にとっては、まさにその機会がこのインタビューでありました。
ところで、先日校内の展覧会を終えました。学校行事を司ることは初めてでしたので、学校の職員の皆に励まされ、そして地域の人々にも助けてもらいました。主事さんが朝、図工室のゴミ箱をこっそりときれいにしてくれたり、保護者が「これ使う?」などとブロックを提供してくれたり、校長自ら夜の展覧会を企画しオヤジの会の人々に呼びかけ、また外の作品のライトアップまでしてくれたりしました。期間中に担任の先生と図工をする「造形タイム」を設けたところ、毎日子どもたちと近い距離で接している担任の先生ならではの導入、語りかけなど、学べる点が多々ありました。
内野務先生が同書のインタビューのなかで、「カーペンターズ」という図工の活動について「造形活動そのものが地域と結び、地域が支援してくれる。」また「学級担任と上手に連携をとることは、子どもを相互的に理解する事につながる」、「学校という組織の中で、図工の先生はもちろん、給食室の人も主事さんも「みんな君をみていますよ。」と子どもに伝えることが大切」(注2)と語られています。図工の先輩について考えると、必ず「子ども」というキーワードが介在しています。「図工」の先輩=「子ども」の先輩、と置き換えてみると、第一に学校という基盤で、学校・地域の身近な先輩たちから学ぶことがいかに大切であるか、大きな行事を通して身にしみました。
辻会長は、鈴石先生との共著『月に吠える』のなかで、「身近な、あるいは、理想的な教師(大人)像をもつことで、それに共感したり、反発したりしながら、自己像を形成していく」(注3)と、自分の位置や考えを確かめるためのモデルの重要性や、さまざまな「出会い」について書かれています。その表現をお借りするならば、図工の世界のみならず広い視野をもって、理想的な教師像との「出会い」のチャンスを見逃さず、その出会いから発生する出来事に対して共感したり反発したりできる自分なりの考えをもった、図工の「新人」でいたいと思います。
注1:『子ども主義宣言』p.256~263
注2:同書p.264~271
注3:『月に吠える』p.16
vol.11 〜環境〜
図工の「環境」について考える
Written by 大畑 祐之
キーワード
2時間・自分の見方や感じ方次第・心の楽しみ方
図工の「環境」ということで、中休みに子ども達が帰ったばかりの図工室を見回してみると…絵の具と傷が層になっている机、材料と道具が区別出来ないくらいごちゃごちゃの棚、洗い場と壁の境目が分からないくらい絵の具のついた流し、前の時間に使った材料のにおい、あちこちに無造作に置かれた作品?や壁の掲示物、いかにも何をやっても良さそうな場所です。 そして次の時間の子ども達が入ってくると、「このニオイ何?」、作品を見て「これ何?」、道具にさわって「これ何に使うの?」、「今日何するの?」、などの質問攻めにあう。いつも通りの始まりですが、しかしどんなに刺激や開放感のある時間と場所、そして材料や題材があっても、子どもの生活の中のほんの2時間です。それ以外の時間の過ごし方、子どもが図工室に入ってきたときの気持ちが、この2時間を大きく左右するのだと、この時感じます。 休みの日に娘と公園で遊んでいて、日差しが強いので木陰にはいると、風が強く吹き、「ヒュー」という音がして木の葉が揺れると、自分は目を細めましたが、娘は「風がおしゃべりした」とつぶやきました。はっとして周りを見ると、強い日差しで薄い黄緑色に透き通った葉っぱが風に揺れて、緑の炎が揺 らめいているように見えて、二人で少し眺めていました。小さな子に限らず子ども達は、日々の生活の中で色々なものを見て、感じて、色々なことを体験して、自分の中に蓄積しているのだと思います。ものの見方は人それぞれですが、自然の中にも、人工物の中にも、様々な出来事にも、周りにはたくさんの面白いことがあります。自分の見方や感じ方次第で見え方が変わってくることに気づき、楽しんで欲しいと思います。 よい題材には、こんな見方が面白い、こんな世界がある、こんなことが出来るなど、子ども達の見方や世界観などを刺激する物がたくさんあります。それによって、子ども達の発見する目や心が膨らんでいきます。その2時間の気持ちを持ち帰り、日々を過ごし、またそれを図工室に持ち帰る。それを繰り返すことで、子ども達の心の楽しみ方が膨らんでいくのだと思います。 生活の中でほんの少しの図工の時間が生活の起爆剤になること、それらを演出するための時間と空間、題材などすべてを含めて図工室の「環境」としていかなければと思います。図工が子どもの環境であること。そのために図工が、いつもワクワクできる秘密の部屋でありたいと思います。
vol.10 〜野性〜
図工の「野性」について考える
Written by 柴崎 裕
キーワード
内なる自然・近代教育の倒立・ポストコロニアニズム・現代美術と野性(凶暴さと底なし) ・習慣と文化に入れる切込みと亀裂(芸術の機能)・表現それは内なる自然との対話・内なる子ども性子ども達から受ける揺らぎ・私の観察という負荷・題材設定の理由を更新し続ける・コントロールし得ない表現・無数のアノニムな表現・ヴァナキュラーな問いに如何に呼応するか
人間の持つ野性、その内なる自然を、排除しようとする明確な力を持つものが「近代教育」である。「理性・知性」を育成することによってそれらをコントロールし、「善き人々」によって社会を満たそうとする「教育」は、抗うことのできない今でも強力な制度であり、装置だといえるだろう。つまりこれまで「教育」は、「野性」を取り込むべき未開の地、荒れ野であり、開発し整備されなければならないネガティブな対象としてきた。 教育学の導入でよく使われる、狼に育てられた子ども「アマラとカマラ」が、どんなに教えても二足歩行ができなかったとか、生肉を直接口で食べた…という事実によって、「野性」を相手に「教育」が、その必要と自明性を端的に伝えてきたのは、周知の事実である。そこから私たちは「教育」が、あらゆる生命のつながりに切り込みを入れて、「人間」を起立させる営みであることを受け取ってきたのである。ところが近年の研究で、この事例は、研究対象と成り得る客観性を持ち得てはおらず、布教を進める者たちよる捏造が指摘され、これら文脈の成立自体を問題とする見方が定まりつつある。ポストコロニアニズム、エコロジー、フェミニズム、ジェンダー、精神病、コミュニケーション不全、子どもという他者性、引きこもり、ニート…。ポストモダンを向かえて浮上する新たな問題群は、社会にとって不可欠に見えた「近代教育」の成立によって、「野性」にネガティブな色調を置き、人格の奥底に閉じ込める教育の働きからも生じていると見える。この時代において、近代教育はますます「倒立」したその姿を露にしているのである。 このような「倒立像」を自覚する以前、社会を成立させる上で、ふさわしい人間を形成するという認めざるを得ない教育の命題、つまり「悪人であってはいけない」という理念に対して、ニーチェは鮮烈な反応を示し、そのような規範を越えていくところに、人間にとっての根本的な価値があることを示していたし、フロイトは理性や知性の裏側に「無意識」の広大な地平を見出し、意識では決してコントロールしきれない人間の在り様を明らかにしていた。 しかし私のような浅学の者には、これらのテクストより、はるかに直接に問題を喚起するものとして「現代美術」があり、そして目の前の「子どもたち」がいた。秋元雄史は次のように述べている。註1
「私はもともと作品を作る側で、アーティストになろうと思っていた。(…以降筆者要約…)つくることの面白さというのは、単純に言えば(やってみないと)どうなるかわからないことだ。生きるということがもっているある不確定な、でも、だからこそ鮮烈な部分というものが、時折、あまりにも定型化してしまった我々に呼び戻させるものの一つとして芸術があると思う。本当の芸術が持っている野性というか、ある本質的な怖さ、生々しさというようなものが、むき出しで見えるのが現代美術だ。日常や習慣は重要だと思う。そして常に片方に不確定で野性的な、人間が人間としていられなくなってしまうような凶暴な側面がある。そういうものを冷静に見て、なぜ自分たちが敢えて文化や習慣といったものを大切にしているのかということを、それぞれが考えるべきだ。そのためにはアートがもっている凶暴さや、底がない感じというのは凄く大切だ。」 自分が内なる自然と対話することが「つくることの面白さ」であり、「それはどうなるかわからないことだ。」…自分というものは捉え難く、表してみなければわからない…
と秋元は述べているのだ。そして私たちのいる図工室は、手放しては生きていくことのできない「文化」と「習慣」をとり込むための学校の中にあって、そこに切り込みを入れ、底無しの亀裂を走らせる「芸術」を床板として敷く、唯一、ひとりの意味生成を中央に置く場なのである。 その図工室では、どんなにお膳立てを、大人の論理で組み立てたところで、子どもたちの必要(回路)が重ならない限り、決して動き出すことのない図工の授業と、「自由に表現しよう」ということばの無意味を、子どもたちと接するなかで私たちは、いやおうなく身体化している。一つの題材は、「教育をする者(教師)」と「教育を受ける側(子ども)」の対立としてではなく、その両者の分かち難い領域としてある「子ども性」=「野性」=「内なる自然」を抜きに成立することはないだろう。つまり私たちは自己の内なる自然をたよりに、目の前の子どもを見、その交差する点を探っているに違いない。 「1年生に、アジサイの花、絵の具を使って描こう。」などという6月の授業が完結するのは、指導者の頭の中だけであることを知っている。アジサイをいくら見せられても、絵を描く手前に子どもたちは、チューブからひねると出てくる絵の具という、色のついた固体のような液体のようなウネウネがまずうれしい。とことんウネウネしたくなる。「絵の具は混ざると変わるんだ。」「このウネウネは手につくとベトベトなんだ。」「ベトベトは水を入れるとサラサラに変わるんだ。」…変化の止まない「もの」の姿に子どもたちの目と手は引き込まれる。…白いパレットの上で、ひねりたての絵の具がいくつも合わさって、みるみるうちに、うんこ色や、どどめ色になっていく。「絵を描くための材料」という習慣・文化として私たちが用意する世界が、音を立てて崩れていく。筆洗バケツの中などは、色が溶けだし渦を巻く底無しの宇宙であって、絵の具の墓場であるわけがない。「ちょっと忙しいので、アジサイさんごめんなさい。せっかくだけどまたこんどね。絵を描くのは100年後にしてください。」このような子どもたちの「まなざし」に晒され、それらの事態から新たに授業を構想することが、少なくとも私たちが授業を始める上での原点であろう。私たちは子どもたちから、「揺すられ」ている。子どもたちに「揺する」つもりはないのに、である。しかし注意しなければならないのは、ここに挙げた子どものつぶやきが既に、「私の子どもの見取り」であり、それは、「私の観察」という負荷が加わっているということだ。私たちは、都合よく私たちの文脈に子どもを置いて考える。 このような事態を困ったことだと受け取り、ある教師は工夫するだろう。また、これら子どもの姿を自分という人間の奥底に同じように見い出して、共感する教師もまた工夫を始める。このような「揺らぎ」の経験を繰り返すうちに、私たちはなんとも言葉にし難い図工授業の「題材設定の理由」を、更新し続ける存在だと言っていいだろう。「そんなことになるに決まっているから、1年生には…」という語りの結語に、これまで述べてきた「野性」なるものを前にして、子ども観、教育観、世界観、美術観を問い直し、そして図工の時間に受け取った経験知を交差させ、初めてそれぞれの教師の姿が形を結び、題材は設定される。明らかなのは、答えは存在しないことであり、「私の観察」を補正し続ける意外に、この仕事、授業を続ける術はないのである。 そして私たちは依然として教育活動において、「野性」「子ども性」というべきもの、そして「揺らぎ」を厄介者扱いしがちである。しかしそこには、本来「自分が決してコントロールし得ないもの」を前にして、深く深く問いかけるべき問題の所在があると私は考える。「表現すること」とは常に「やってみなければわからない」というコントロールし得ない深みを伴った自己の「表れ」であるからこそ、無限の可能性を秘めているとも言い得るのである。そこには本来教育することのできない「創造」という営みが、未だ語られることなく眠っているのだ。無数のアノニムな表現、それは「善き人で満たそうとする目」には、ともすると無数のゴミとしか映らない。しかしそれは未来を生きる一人ひとりの「表れ」であり、ヴァナキュラーな「肉声」「問いかけ」である。自身の内なる自然を見つめ、如何にその問いかけに呼応しうるか…この教科の中核が、そこにあると私は考える。
註1 秋元雄史:元 直島地中美術館館長・現 金沢21世紀美術館館長2006.10 SOVA(Seeds of visual Art)フォーラム『直島で考える』冊子<SOVA>鑑賞のダイナミズム—子どもが変容する学びとは—2007.3:SOVAプロジェクト実行委員会編P.65〜から引用アノニム anonym:匿名者・作者不明の著作/ヴァナキュラー vernacular:自国語・方言・日常語
vol.9 〜評価〜
子どもの「評価」について考える
Written by 鈴木 陽子
キーワード
子どもの姿・子どもがみつけていく・創造的に自分をつくりだす・自分の技・子どもを見る 子どもの考えを見る・子どもの広がりを見る・教師の評価・未来につなぐ人間的な営為
2年生のF君はいつになく、慎重です。初めて出会う自分の水彩絵の具。パレットに並んだ絵の具になかなか手を出そうとしません。ずっと色を眺めています。しばらくして水を含ませた太い筆に、そっと青をつけました。どの色を最初に使おうか、考えていたのでしょう。パレットより小さなサイズの画用紙に広がった、透き通るような青に「ぅわぁ」。そこに緑を合わせて色が変わると「すごい・・」。F君はパレットにのめり込むようにして、自分の色を思うがままにつくり始めました。画用紙のまわりを青と緑を少し重ねて、2本の太い線でぐいっと囲み、その中に赤と緑の点々をおいて縦にして見せてくれました。『すてき』と言葉が添えられています。「どうしてそう感じたの」「だって、かこったせんのなかに、てんてんがならんだら、すてきっておもったよ」それは本当に縦に見ると素敵です。自分の好きな色を選び、いいなと思うように形をならべ、まざりあう色に心響かせながら、絵の具の美しさやよさを感じ取っているのです。自分の色に命名し、次々と伝えにきてくれました。そのうち大きな画用紙を持ち出し、まぜてつくった色を、跳ね上げるような筆の動きで、水の量を変え、さまざまな線をいくつも重ねています。画面いっぱいにあふれるようでした。リズミカルにそして遊んでいるように、F君の体も楽しそうに揺れていました。絵の隅のほうには、『水だ、水だ、水あそび』とかかれていました。そして「先生、手がうごいて、うごいてとまらないよ。」動いて動いてとまらないのは、どんどんいいことを思いつくよ、こんなことができたよ、まだやるよ、という子どもがみつけている時間であり、創造的に自分をつくりだす喜びにひたる全身の感覚なのでしょう。 子どもの姿から、水彩絵の具の「創造的な技能」は何かと考えると、F君は色と色を混ぜて新しい自分の色が生まれる楽しさから思い付いて、自分の表し方でつくりだしました。手がける中から生まれる偶然の面白さや楽しさを選び、自分の行為や感覚から色の変化に気づき、自分の色をつくりだしながら、思いや意図を具体的な色や形にしていました。水彩絵の具の技能や技法は、ていねいに着彩できているか、いないかではなく、F君の創造性と一体となった自分の技です。
評価は学習指導要領の目標や内容から導き出された評価規準によって子どもたちの資質や能力を伸ばし、子どもたちの学びの様子を判断するものです。図工の学びを実現するために、指導と評価は常に一体に働き、評価の4観点に示された資質や能力をすべての子どもたちにはぐくむ必要があります。図工の評価の特徴は子どものよさから理解を深めることです。子どもの活動や作品から、「子どもを見る」「子どもの考えを見る」「子どもの広がりを見る」ようにしていきたいものです。「一人一人の自由な表現は、多様であり、そこに働く資質や能力には幅があります。・・・子どもたちの資質や能力をスポットライトの光で照らし出すようにしてとらえるようなものです。」と板良敷先生は言われています。註1 ひとりひとりの子どもに自分が表現することがあるか。子どもは自分の考えで自分の感じたことで表現しているか。子どもがみつける時間をつくっているか。子どもの育ちに適切でない知識や技能を教え込み、子どもの自分らしい見方や感じ方を狭めてはいないか。大人は自分がちゃんと豊かであるか、自分をつくりつくりかえているか。いちばんしなければいけないのは教師の評価だといつも自戒しています。 「大人が今やっぱり本気になって、子どもたちのように自分で次々と、自分がつくりだしながら、自分が何か行為しながら、その行為によって生まれた世界にまたかかわってそれをつくりかえていくというすごい力を、私たち大人はもう一回見直さなきゃいけない。本当の評価は今ある子どもたちの姿をさらに未来につなぐ人間的な営為です。」註2 西野範夫先生のお話の余韻が今も深く響いています。
註1「図画工作の指導と評価」板良敷 敏・阿部 宏行編著(東洋館出版社)
註2 2007年6月15日・都図研研修会の講演、西野範夫先生のお話から (講演の記録をおこし、各地区理事と研修会参加者にお配りします。)
vol.8 〜表現(イメージ)〜
子どもの「表現(イメージ)」について考える
Written by 高橋 香苗
キーワード
表現の原動力・行為の誘発・コミュニケーション、会話・対話のループ・つくりかえていく・直感的・子どもの思考法・意識化・寄り添う 柔軟・体験を仕組む・いざなう
「造形活動の中にいる子どもたちは、いともやすやすと線を描き、気に入った色をつかい、絵の具を混ぜ合わせ作品をつくりだす」と教師になりたての頃の私は思っていた。「イメージはすでにどこかにあって、材料の形をかりて現れ出る」と、素朴に考えていた。しかし、私は徐々に、子どもの表現の原動力が、イメージを探ることそのものであったり、子どもの行為がイメージをかたちづくりながらも、時にはそのイメージによって行為が支えられていたり、またイメージが子どもの行為そのものを包み込むようにして、活動を促していることがあると、気づくようになった。 描く時(そしてつくる時)には、今この描きつつある場で、子どもが考えて手を下したことや、偶然のようにここで思いついてやったこと、また、あれかこれかと慎重に選んで行ったことすべてが折り重なり、目に見える色やかたちをつくりだす。それはまた、描いている(つくっている)子どもに新たなイメージを引き起こし、次の行為を誘っていく。それは「つくる」という言葉からなにげなく連想するような、一方通行の働きではなく、かたちづくりながらコミュニケーションをするかのようでもあり、今ここで絶えざる会話をしつづけているかのような活動なのだ。 脳科学者の茂木健一郎氏は「脳のアーキテクチャとして、脳っていうのはいったん外に出力しないと自分自身とのコミュニケーションが完了しないんですよ。つまり、前頭葉の運動野っていうのがありますよね。ここから出たものが後頭葉を中心にある感覚野のほうにフィードバックされてこれで初めて自己との対話のループが完結するんです。出力側の考えていることは入力側にはわからないようになっている。何か出さないと。自分で言葉に出さないとわからないこととか、自分で形にしないとわからないこととかがあるんですよ。もちろん他人に見せたいって言うのもあるんですけれども、子どもなんかだと一人遊びは自己との対話なんですよあれは。ああやって脳みそが自分自身と対話しているっていうかな (註1)」と、手いたずらをしてかたちづくらずにいられない子どもの姿を解説された。 子どもの表現方法は、イメージをもとに絵を描きつくるというより、今ここで連想し、行為しながら感じ考え、新しい思い付きによって次々とつくりかえていくものである。子どもたちはその活動のなかで自分なりの色やかたち、テクスチャーの美的なバランスを直感的に構成している。子どもの思考方法は大人と違うけれど価値あるものだ。子どもと話していると、子どもの考えや思い付きが私と子どもの接点を越えて、空間を包み込むような、ふしぎな思いにとらわれることがある。 私は今でも「結ぼれ(註2) 」「好き?好き?大好き?」「子どもとの会話」(R.D.レイン(註3) )にひきつけられる。そんな時、生き生きと思い出すのだ。 かつては「子どもたちは技術はないが、感覚は大人には立ち打ちできない(ほど優れている)。」ことを、誰もが知っていた。「子どもの美的な感覚は成長にあわせて意識化されなくては、失われていくもの。」と考えたのだ。システム化された方法論で、子どもの描画を予定されたイメージに乗せていく「さまざまな方式、描画法」は、子どもをどのような存在として見ているのだろう。 では、子どもの「表現(イメージ)」を子どもたち一人一人に結びついたものとして大事にするとき、私たち教師になにができるのだろう。「子どもたちに共感的に寄り添うこと。題材を柔軟に子どもに合わせて進めること。色彩やテクスチャーの豊かな体験を仕組むこと。」さまざまな目前の課題に粘り強く取り組むことで、子どもたちを「表現(イメージ)」の場にいざなう努力を続けることだ。そう自分を戒めている。そんな日々の働きによってにじり寄っていきたいと願っている。
註1 「子ども主義宣言」茂木健一郎インタビューより
註2 下記R.D.Laingの著作表題。「結ぼれ」は原文では「KNOTS」註3 Ronald David Laing(1927~1989)イギリスの精神医学者。
vol.7 〜材料〜
「材料」について考える
時任 勝 (インタビュー)
(聞き手 中尾 公治)
キーワード
コトバ・指導者の提案・押し付け・子ども自身の題材と子どもの材料・抹殺とやってみよ〜・指導者としての権威・刺激と変化・図工専科
■今日は「材料」について考える。ということで、多忙を極める時任理事長に時間を裂いて頂き、お話をうかがいます。「材料」といえば、図工には不可欠なものですが、「材料」を選定する時に、どんなことを考えて選定しますか?
◇「材料」はもちろん重要だけど、コトバ がもっと大事だと思う。授業を始めるにあたって題材を決めるでしょ。題材は指導者の提案で、提案を子どもに受け入れてもらわなければならない。題材を提示した時に子どもの気持ちが動いて、子ども自身の問題になろうとしていくわけで、題材は押し付けであってはならない。その時にコトバというのが大切で、題材が指導者の題材ではなくて、子ども自身の題材として融合していくか、というのが決め手になる。そこでは指導者が、子どもにこれを作っていただこうと思って「材料」を決めてると思う。まあ、押し付けには変わりはないのだけど、こちらの謙虚さというか…。そういう場合と、指導者が「材料」をいじくっていて、「これはなんかおもしろそう」とか「こんなこともするかもしれないなぁ」「こんな発見するかも…」などと子どもの行為行動の可能性を想定して、特にこれを作ろうという題材が決まってないけれど、あれも、これも、こうもできる、と思って子どもに「材料」をわたして、子どもが「材料」に触発されて題材を創っていくというきっかけになる場合もある。
■大きくわけて「材料」が決まる2つの方向がある?
◇指導者の選んだ題材とコトバがカギを握っている場合と、「材料」とコトバがすべてカギを握っている場合とね。
■コトバが大事だ、ということは?
◇子どもと仲良しでニックネームで呼ばれたり、授業も楽しそうにやってるけど、われわれはどうやったって先生なのね。たとえば、段ボールを使ってるときに、子どもが「あれ?この材料はこんなこともできるかもしれない」って気づいて「こういうのダメぇ?」って聞いてくる。その時に「ダメ!」っていうのと「ア、それおもしろいじゃん!やってみたら?」っていうのは全然違う方向に行くでしょ。「抹殺」されるのと「やってみよ〜!」となるのと。「材料」がその子に委られてるのに、コトバによってその子の「材料」になる場合と、ならない場合がある。仲良しのつもりでも、われわれは常に指導者としての権威を,カスミのように漂わせてる。
■その子のものになる「材料」とは?
◇「材料」というモノじゃないんだよ。人によって興味や価値の方向が違う。そのよさや魅力はその人の生活経験やいろんな要素で違う。そんな人たちの材料観に刺激を与えるのは指導者しかいない。その指導者、先生がいろんな見方を試していくような姿勢がなくてはいけないし、美とか醜とかそういうことを、いつも自分に突きつけているようでないと、図工専科としてはキツイんじゃない?マニュアルにあるものを提示して、「ダメ」とか「いい」とか言ってるだけじゃ図工専科の存在は危ういことになるし…。目的にもよるけど、段ボールを買っちゃって、ピシッとしたのをみんなに配っちゃう人がいるでしょ。そこらにある段ボールっていろんな種類があるんだから、やっぱりそれをやぶいたりめくったり丸めたりしてみたほうがいいと思う。自分でやってみてはじめて「材料」がわかる。子どもたちはどういう受け取り方をするだろう、ということを考えられる。その上で段ボールを子どもにわたして、子どもが「こうしてもいい?ああしてもいい?こんなのできたよ」って言って来ても「やってごらん、いいねぇ」ってニヤニヤしてる。「こういうふうにしたいんだけど、どうしたらいい?」って来た時にはじめて「こういう方法もあるし、こうもできるよ」って言えるんじゃないかなぁ。[子どもの材料]になってしまったらこれくらいの手出ししか出来ないんだよ。これくらいの手出しをするために、自分は何をしただろうって考えてほしい。ま、それだけじゃないけどね。ものを多角的に見る能力。造形遊びの基本的な考え方の中にもあるけど、ものをいろんな方向から見て、試して応用して自分のものにしていく。子どもの材料観が変化してそれが意欲につながるし、そんなことを認めてあげられる時間があるのが、図工のだいじなところでしょ。自分が図工「専科」でいる意味を考えてほしい、と思います。これは今の自分自身に対しても言ってることなんだけど。
vol.6 〜鑑賞(みる)〜
子どもの「鑑賞(みる)」について考える
Written by 南 育子
キーワード
ミミズ・記憶・非日常との遭遇・視覚と感覚のつながり・美術館・鑑賞教育・一回性・鑑賞と表現・世界とのつながり・確認・繰り返し・伝える・可能性への跳躍
■雨上がりの路上に土から這い出たミミズが大発生すると子どもたちは大騒ぎになります。ミミズに関わる子どもの行動も様々です。ミミズを注意深くみながら、隙間に足をのせ通りすごす子ども。かたっぱしから捕まえる子ども。その行動と記憶される感覚は固有なものとなるでしょう。「くねくね」とした動きや感触、その時の気分などが子どものなかに意味づけられていきます。間接的には雨によってその記憶がよみがえることもあるでしょうし、臭いによってそこにある風景と記憶が新たにつながることもあるでしょう。 この一例は日常に出来た非日常的な出来事に遭遇したとき、足を止めみることをはじめた子どもの様子です。みることは視覚以外の感覚とつながり積極的な働きを見せます。 子どもをとりまく世界はつねに変化し動いています。みることから子どもはその流動性のなかで感じ、立体的な時間のなかに存在します。また、子どもひとり一人は異なる生活経験をもち、そこにある出来事から独自の感覚や感情、知識や思考を働かせています。
■■ここ数年、子どもの鑑賞が研究の対象として注目されています。これは、学校現場だけではなく、美術館でもおなじく美術館を舞台とした鑑賞教育の可能性が問われています。2002年に施行された新学習指導要領に「児童や地域の実態に応じて、地域の美術館を利用すること」の一文が記され、より積極的な美術館の活用を促してきました。学校の完全週休2日制実施、国立美術館の独立法人化は、子どもを未来の来館者とし、教育プログラムの開発、ギャラリートーク、ボランティアスタッフの教育と充実など学校を受け入れる環境が整えられてきました。 「なんで彫刻はみんな裸なの?」「こんなに大きな絵、何人で描いたの?」「これが油絵なんだね。光っているよ。」こんな声が美術館の入り口から聞こえてきます。子どもが発する言葉はみえたことに率直でとても生々しいです。美術館には「美術史的・科学的な研究上の美術」が確かにあります。展示室にも意図的な配置がされ、目的に応じた鑑賞、研究を満足させる空間がつくられています。一方、誰でも自分の目でみて感じたことを表現する事が出来る空間でもあります。
■■■子どもの「鑑賞」を考えるとき、子どもを美術の受け手とした鑑賞者として捉えるのではなく、より主体的に作品をみて表現する創造者として捉えます。表現された色やかたち、作品は、環境・空間、時間などの相互作用と受け取る側の視覚的、触覚的、感情的、美的、創造的な感覚、思考が働き立体的な編み目をつくり、多様な輪郭をつくりだします。色やかたちを媒介とした鑑賞は繰り返すことの出来ない一回性の出来事を生み出します。そこに働きかける子どもは自分であることから離れず、みること、感じること、考えることからしか立ち向かうことはできません。鑑賞することは表現することと同じように自分であることに向き合うことであり、世界との新しいつながりを生成します。自分にとっての着地点を生み出す創造的な活動です。 また、鑑賞は独立した扱いも出来ますが、表現ときりはなすことのできない内容です。 「あっそうだ、こうやればいいんだ。」手で粘土をこねてできたかたちをみながらつぶやきました。星のようなかたちをつくりながら、「あっそうだ、いいこと考えた。」といいながら一気にひとかたまりにつぶしてしまいました。何度か繰り返しながら粘土そのものを自分にたぐりよせ、自分の内側が動き出したことをかたちにし、確かにあることを確認しています。みることとつくることは繰り返されていきます。 鑑賞(みて、感じて、考える、伝える)は、表現する自分への期待とさらなる可能性への跳躍に力を与えるものではないでしょうか。
vol.5 〜教師〜
図工の「教師」について考える
Written by 鈴石 弘之
技術中心 ・させる・仕掛け(指導内容)・創美(創造美育協会)・教師主導・玄関に絵をかざろう 子ども中心・解放思想・造形的あそび・認識・商売(指導)
辻・横内・鷲尾・内野氏の格調高い図工実践哲学が連続して披露された。その文章をよくよく読み取ると図工の先生のあるべき姿が浮かび上がってくる。それで充分な気がする。だから、エッセー風に仕上げることにした。
僕が小学生の時、既に図工の先生がいた。西山先生という。もう50年前のことになる。西山先生の授業で覚えているのは銅板に鈴石とかいて、金づちで5寸釘をポンチのようにしてたたき、周りを凹ませて名前を浮き出させる浮き彫り。表札になった。だから、その頃はどの家も子どもが作った表札がぶら下がっていた。へたもうまいも関係なく、母親はちゃんと掛けてくれた。今となっては、技術中心だと鼻にもかけないだろう。でも、僕が図工の先生になった頃もまだそんな題材があった。流石に表札ではなかったが、給食のお盆を芋づちでガンガンたたいて浮き彫りにさせたことを覚えている。38年前のことである。ところでどうだろう。その作業的な仕掛け(指導内容)の善し悪しは別にして、次のような事柄とシンクロするのではないかと思いついたのである。それは、創美の創立会員だった福井の木水育男という校長先生の仕掛けである。木水氏はそれまで養護学校で図工を教えていたのだが、健常な子どもの小学校の校長として転勤することになった。ところが、その小学校の図工ときたら、まったくと言ってよいほどひどいものだった。それで、校長自ら図工のあり方を教師主導から子ども中心に転換していった。それと同時に保護者の図工への関心を喚起するために、保護者に『玄関に絵をかざろう』と呼びかけたのである。子どもの絵が各家庭で飾られている。なんの変哲もないことのようだが、保護者への説得など、それは一日にしてはなしえない苦労もあったのではないだろうか。
その運動は今から30年も前から始まって、今でも続いている。母親たちに連綿と引き継がれて……。 子ども中心の解放思想の実際が家庭まで行き渡った稀有な例であるが、わたしたち図工の先生には思いもつかないことだったような気がする。絵が主人公になって、そこにあるという事実は重たい意味をもっているように思う。つまり、絵が子どもと親と教師の対話や親密な関係をつくり出したということになる。 日本の人びとの2割しか、図工は大切な教科だと認知していない。8割はあまり必要ではないと思っている。その2割の壁を乗り越えるための道しるべにならないだろうか。昔の話を蒸し返そう。文部省教科調査官だった西野範夫氏が孤軍奮闘して「造形的遊び」を指導要領に組み入れた頃、文部官僚にこう言われたそうだ。西野氏が東京都の図工専科の話に及んだところ『 そうか。君は吹きだまりの親分か 』と。ぼくも吹きだまりに浮いている泡沫の一員かと愕然としたが、そんなものだ。今でも、そのような認識をお持ちの方々がきっと沢山いらっしゃるに違いない。 図工の先生という商売(資本の論理が大手をふって学校になだれ込んできているからそう言おう)は難しい。だって、子どもが中心って言ったって、たった1週間に60分〜90分しか子どもという商売相手と付き合えないのだから。濃密な王国を築いている担任とは大違い。(専科は職員室でべらべらおしゃべりしている。まったく。と陰口をたたかれているのをご存知か?)そこんとこをしっかり自覚しなければなるまい。 その上での話だが、でも子どもは図工が好きだということだ。でも勘違いしてはいけない。子どもは木や土や釘やかなづちが好きなだけだ。だから、図工の先生が変ってもちょっとは前の方がマシかなと思うけれど、1ヶ月もたてば、今度の先生でもいいかと思っている。先生は2番目なのだ。
その図工の先生がまたまた百家争鳴、百鬼夜行。工作はばっちり、造形遊びはわかんない、絵は指導するのがむずかしい、指導要領なんて権力の道具だから読まない、認識が大事だ、いやいや解放だ、都図研のヒトなどなど。その上、免許更新制や確実な学力、年間指導計画、評価規準に基準、外部評価、キャリアプラン、自己申告など締め上げられてたまらない。もう人間じゃないみたいだ。あんまりひどいので死んじゃう若いヒトもいる。
vol.4 〜カリキュラム〜
図工の「カリキュラム」について考える
Written by 内野 務
キーワード
造形活動の構造・『見えるカリキュラム』・整理ダンス・カリキュラム骨子・子どもに見える・子どもの育ちの指標・育ちのめあて・6年間展望
図工科のカリキュラムは、意図的に編まれた造形活動の全容であり、図工経営の根幹をなすものです。各校のカリキュラムは眼前の子どもたちの豊な育ちを指向し、学校の教育目標を重ね、それを『図工ではどう担うか』という方途が組み込まれていなくてはなりません。つまり「図画工作」で育てたい子ども像を、いかなる実践の積み重ねで実像化するかの具体的アプローチがカリキュラムなのです。今、私たち図工専科には、単題材で図工を主張することより、カリキュラム全容で図工を語る課題を突きつけられている時代性を感じます。「子どもの豊な育ちを目指すという、他教科、他領域と共通の土俵に上がり、「図工では」と、子どもと図工の双方が『見えるカリキュラム』を提示する必要があります。都図研「子ども主義宣言」は、このような議論を経て、言説を超えた「生きて、広がる宣言」となると思われます。カリキュラムを編んでいくこと 日々の実践は点に過ぎません。それらを点のままにしていては、つまり実践の集積だけではカリキュラムを組むことはできません。それらの連関を考察し線で結び、その相関性を立体的に立ち上げ、さらに小学校6年間の子どもの育ちに適合させる。ここで始めて構造的な図工のカリキュラムが立ち上がるのです。まさに図工の数々の実践を整理ダンスに入れてみる試みです。それは6年間、6段の引き出しのある、図工の整理ダンスです。 しかし、このような構造を持ったカリキュラムは一朝一夕では構築できません。先ず、実践の集積とチェックが基本になります。つまり個々の実践の評価から、カリキュラムづくりが始まります。タンスに収納するに値する実践か否かの判断をします。それは子どもが自分の課題として捉えなおし、「自分だったら、こうしたい」と言う、子どもの決定や見通しが、しっかり生かされている課題の集積でなければなりません。
次に、集積された活動内容をいくつかの領域に分類します。この視点こそ、図工のカリキュラム構造の大切な柱になります。この柱は、絵、版画や工作と言う、単なる表現領域の分別ではありません。ものから発想しつくる、つくりかたを考える、人とつくり合う、見て描く、想像して描くなど、造形行為を多様な角度から分類する必要があります。こうしてタンス収納の共通の収納箇所、カリキュラム骨子が決められる訳です。子どもを基軸としたカリキュラムづくり これらカリキュラムは、子どもにその全容を提示しなければなりません。6段の『図工の整理ダンス』は子どもにも見える総ガラス張りのタンスでなければなりません。一年間の活動にとどまらず、6年間の長期に渡る全容が見られることが望ましいものです。ここでカリキュラムは、教師の計画領域から、子どもの主体的な造形活動の指標となるカリキュラムになる訳です。
『目新しい教材の開発』を無我夢中で試みた時代が私の中で去り、今は子どもがそれなりに弾んで広げた題材の数々がタンスに残りました。つまりカリキュラムは子どもがタンスに残していった宝物の一つ一つでもあります。たまにタンスからそんな題材を引っ張り出し、虫干ししつつ毎年の子どもの様子を見ながら提示しています。絵や工作だけでなく、造形あそびも同じです。3年になったら、夏は校庭で水遊び、5年になったらカーペンターズ、6年の最後を締めくくる一枚の板から。つまり「何年になったら、図工で何々ができるんだ。」というように、造形活動の内容が子どもの育ちのめあてにもなっています。そんな展望を含んだ図工のカリキュラムは、子どもたち自身が6年間の学校生活を構築していく、豊かさを含んでいるのです。
vol.3 〜教材(題材)〜
図工の「教材(題材)」について考える
Written by 鷲尾 礼子
キーワード
「教科」としての図画工作を考える
学びの主体・資質、能力・学習内容・多元的な価値観・指導観の転換・教科の特性・年間指導計画 授業の質的改善・都図研「子ども主義宣言」
「 教材(題材)は、学習指導における表現や鑑賞などのひとまとまりの学習活動と学習内容 」によって全体が構成されています。
多くの場合は「単元」として示され、学習内容が分節化できることが前提となっています。けれども造形教育では、学習内容が分節化されるものではなく、いろいろな観点が相互に関連付けられて、一体的に働くダイナミックな展開性をもっています。したがって、題材の選定に当たっては、子どもの活動の特性や造形性を考慮して、具体的な子どもの活動そのものを焦点化するなどの視点が大切になってきます。また、子どもの経験や、前提となる学習内容なども関連付けて考える必要があります。子どもを中心にすえた、豊かでひろがりのある題材設定が望まれていると言えるでしょう。
ところが現実は、教育としての要求(大人の要求)や題材の教育的価値に焦点が当てられ、子どもが本来もっている可能性や主観的、具体的な価値に彩られる世界への眼差しが希薄になっているように思います。そのため、何をどのように教えるか、どのような材料や道具を活用して活動を展開していくかなどの方法論に陥っていることが多々見られます。図画工作科では、子ども一人一人の自由な感じ方を起点として、自ら活動の意味を見いだしながらそれぞれの表現意図に合わせて材料や技法を選択したり、身体化した技能を駆使したりして、主体的に表現活動に挑むことが求められています。
言い換えると学びの主体である子どもに、異なる感動体験の蓄積をバックボーンとした自分の思いから出発して個性を発揮しながら、ものや人との関係性の中で新たな意味をつくりだしていくことが求められているのです。このことは、都図研「子ども主義宣言」が掲げる「子どものなかに真実がある造形表現は「私」をつくりだす造形表現は、強力なコミュニケーション・ツールである」の主張につながるものです。私たちは、一元的価値に向けて、子どもの活動を狭め、均質な結果を求めるあまり、子どもが自ら知識や技能を獲得する喜びを奪い取るような題材を設定してはなりません。
題材は、子どもがゆとりをもって表現活動を進め、材料を選んだり、いろいろな表し方を探ったりして、自分の資質のよさを楽しく働かせて取り組みができること、表す過程で十分な試行錯誤が保障されるような柔軟性があること、子どもが能動的に取り組んだときに、自ら高めていく奥行きの深さを持っていることなどの視点から設定することが大切です。また、活動の経験が分断化されることのないように、学習内容につながりを持たせ、学習活動を関連付け、他の活動にも生かすことができるよう題材を構成していくことが必要です。例えば、学習の中心的内容からテーマを設定し、題材を組織し、子どもが内容的なまとまりをもって、活動に挑むことができるようにする。学校の行事、季節、暮らしなど様々な対象世界と子どもの関係性に着目した題材を開発するなどです。そして、個々の子どもの資質やよさに応じた指導への配慮をすることです。
最も重要なことは、子どものありようです。子どもがどのような行為をし、ものや人との関係性をつくりだしていくのか、そこで起こる出来事の意味は何か、子どもが発揮する能力の価値などを念頭に入れて題材を考えていかなければならないでしょう。そして、常に上記のことを確かめながら、目標、内容、方法を見直し改善していくことです。このことによって、子どもの実態に即した年間指導計画を作成することが可能になるのです。
vol.2 〜子ども観〜
図工の「子ども観」について考える
Written by 横内 克之
キーワード
子ども中心主義・都図研「子ども主義」宣言・新自由主義・学力指標から装置(device)へ・総体としての子どもから個々の子どもへわざの洗練・ちえの体系 ・「私」と「公」
「図工の子ども観」を語ることは,なかなか困難です。というのも、「子ども観」は、図画工作科という教科の枠組みに留まるだけのものではありませんし、さらに言えば,それについて語ることは、人間としての在り方に関わるものであればこそ,この教科やその人間観が学校教育に欠かせないものであることを再認識する自家中毒のような状況に陥ってしまうからです。
例えば,戦後この60年の造形美術教育における動向から見えてくるものは,教える内容を重視するか,子どもの主体性にウェイトを置くかという教育が抱える本来的な矛盾・内容と重ね合わさるものです。それは,図画工作科だけが抱え込むような状況や課題ではありません。
けれども,結果的に造形美術教育は,システマチックな動きとそれに反発する動きとの位相の中で揺れ動きながら制度と向き合い,あるいは教育制度や改革に対しての葛藤を繰り返しながら「表現する主体としての子ども」という子ども観を図画工作科の教育活動の中核に据えて教科の在り方を問い続けています。
実は,すでにそのこと自体が,図画工作科が学校教育全体のバランスシートを握っている教科であることを物語っているように思われるのです。
現在,学力問題から派生する揺れ戻しの教育改革の只中にあって,私たちが「子ども主義」を標榜することは,ややもすると「子ども中心主義」の亜流のようにとられかねません。けれども,「子ども中心主義」への批判*1が前回の学習指導要領が掲げた「ゆとり」と「生きる力」の教育を支える「新しい教育観」の根拠であるということと、都図研「子ども主義宣言」が掲げるものとを同様なものとして批判することには無理があります。それは、新自由主義的な競争原理・自己責任や選択幅の拡大を通じて変わりつつある今日の社会にあって、学校が子どもたちをその制度への適合を図る選別の機関としての機能を一層担うために「学力」という数値化された指標に目が注がれているからです。
子どもたち一人一人が自分のもてるよさや力を知り,それをさらに伸ばし自分の存在に価値を見出すようになるために、それまでの自らの学び方や学んだものを活かしながら新たな課題に挑戦して行くための装置として学力が語られるようになるには、今のように量的に計測可能なもののみで語られる状況を変えなければなりません。
「子ども主義宣言」は、その一石を投じる働きを目指します。そのとき,一人一人の子どもの存在が際立ち,日々の学校生活で生起するものが子どもという総体で起こる出来事なのではなく,個々の子どもにとって意味ある出来事であることが明らかになるでしょう。技術や技能は個々が経験し獲得する「わざ」の洗練であり,知識や情報のスキルは、個々が自らの言葉に換える「ちえ」の体系であることが見え始めたとき, 子どもの見方が変わるはずです。
社会のあちこちで聖域をつくらず行過ぎた経済至上主義の効率化が求められ,一見すると無駄や非効率に思われるようなものがどんどん切り捨てられたり姿形を変えたりしています。今や,学校も子どもも教育産業の構造を支える制度や存在になろうとしています。子どもの生きる世界から,どんどん「私」が片隅に追いやられ,選択の余地無く「公」に放り込まれているのが現状なのかも知れません。
*1 「子ども中心主義」については,苅谷剛彦『教育改革の幻想』ちくま新書 2002年 に詳しい。
vol.1 〜教科〜
「教科」としての図画工作を考える
Written by 辻 政博
キーワード
教育・教化・成長・発達・教科教育・図画工作科・媒介(メディウム)・学び・表現の主体・経験主義・系統主義・造形活動・教授学習過程・学びの構造化・所得格差・文化的権利
学校教育においては、さまざまな「教科」が、子どもの成長・発達を支える枠組みとして、設定されています。図画工作科もそのひとつです。「教育」とは、子どもの成長・発達に対して、意図的、計画的に介入し、それをおしすすめる活動と定義できます。つまり、図画工作科は、教科教育をとおして子どもの成長・発達にかかわっているのです。言い方をかえれば、図画工作科は、子どもの成長を支え、促す「媒介」(メディウム)であると考えることができます。そして、このメディウムとしての教科には、それぞれの特質が存在します。
つまり、図画工作科は、かたちと色をもちいた造形活動という独自な営みをとおして、子どもの成長に寄与することになります。これは、「ことば」や「数」「音」をメディウムにした他の教科活動に置き換えることのできない特質をもった活動です。現在みられる教科の枠組みは、理数系、人文系、運動生理学系、芸術系などの母体となる学問体系によっておおよその枠組みが設定されていると考えられます。このことは、文化的な遺産を伝達、伝承するという考えをみてとることができるでしょう。けれども、単純にことは運びません。なぜなら、教育とは、たんに子どもの外部にある学問体系を機械的に植え付けるだけの営みではないからです。(また、単純に考えてみても今日の細分化し、複合化した学問体系を網羅することなどできません。)Educationという語義には、内在的なものを引き出すという意味が含まれます。(Indoctrination[教化]ならば、ある特定の思想や考えを植え付けることを意味します。)
また、教育という言葉には、「教える」ことや「育」つまり「学び」育つことが含まれます。教える主体とは、教師です。子どもはそこでは教育の対象として客体となります。けれども、学びの主体とは、子ども自身です。実際の授業における「教授?学習過程」のなかでは、教えることと学ぶことが激しくせめぎあっています。
経験主義のカリキュラムは、この学びというものを最大限に増幅したものであり、系統主義は、教えるということの営みに固着したもので、戦後の教育は、こうした極の振幅の上に成り立ってきました。 こうしたことを図画工作科の教科性にあてはめて考えるとさらに、そこに独自の位相がみえてきます。図画工作科は、美術・芸術文化とそこに付随する造形活動を媒介に、たんにそれらが教えるべき教科内容としてあるのではなく、教科活動の核には、「表現する主体としての子ども」が存在します。
他の教科が、教科内容の習得が目的であるのに対して、図画工作科では、たんに美術・芸術文化の知識・情報を教育の対象としての子どもに伝達するだけでなく、いわば、入れ子状に、表現の主体としての子どもが存在するのです。表現活動(鑑賞もまた同様にそこに見る者が主体的に意味を生み出していく)においては、表現の主体である子ども自身が、そこに自らの意味を生成していくのです。子どもは、教育の対象として、客体でありながらも、同時に表現の主体としてあることが、図画工作科における子どもの独自な位相であるといえます。 「表現の主体」を「学びの主体」といいかえるならば、私たちは、子どもの学びを構造化し、教科としての位置を確立しなければならないでしょう。
そして、現在のおおきな問題は、「競争原理の導入」などによる「教科の選択化」によって、一見、それぞれの子どもたちの自由な学習が保障されるような錯覚が、制度のなかに持ち込まれようとしていることです。現実には、教育の機会均等が、所得格差、二極化によって保障されず、「経済資本」や「文化資本」が、公平に分配されない事態となるのです。
教科としての図画工作科の存在は、実は、子どもにとって、文化的な権利を示しているのであり、すべての子どもたちは、図画工作を学習することができる機会と権利をもっているのだ、といえるのです。



